大正時代、台湾の人々の生活を豊かにしようと奮闘した日本人がいました。台湾に東洋一とも言われるダム建設をした日本人技師「八田與一(はった よいち)」の感動秘話が紹介されています。今も語り継がれる八田氏の人情味溢れる活躍ぶりは、台湾と日本の固い絆、そして日本人としての誇りを再確認させてくれます。
戦前の台湾で東洋一のダムを作った日本人
台湾南部の古都・台南市から東北にバスで1時間20分ほど行くと、台湾第2の烏山頭ダムに着く。湖畔にはホテルが建ち、満々と水をたたえた湖水にはボートも浮かぶ観光地になっている。
このダムを見下ろす北岸に、日本式の墓があり、「八田與一、外代樹之墓」と刻まれている。墓の前には作業着姿で腰を下ろし、片膝を立てた八田の銅像が建っている。墓も銅像も、このダムを造った八田與一を敬愛する地元農民が作ったものだ。
1996年、地元の農民たちと日本人が集まって、墓前で50回目の慰霊祭を行った。参加した「百年ダムを造った男」の著者・斉藤充功氏が、ちょうどダム見学に来ていた女子高生2、3人に話を聞いてみると、こういう答えが返ってきた。
「学校の授業でダムを作ったのが日本人だということは聞いて知っていました。しかしなんという日本人なのか先生も知らなかったので興味をもってここに来ました。説明板を読んで八田與一技師ということが分かりました。驚いたのはダムができたのが私のお爺さんの時代で、遠い昔に10年もかけて八田技師はここに住みついてダムを完成させたと書いてあります。日本人はすごいと思いました」
八田與一の業績は、元台湾総統・李登輝氏の次の言葉が見事に要約している。
台湾に寄与した日本人を挙げるとすれば、おそらく日本人の多くはご存じないでしょうが、嘉南大しゅう(土へんに川、用水路)を大正9年から10年間かけて作り上げた八田與一技師が、いの一番に挙げられるべきでしょう。
台湾南部の嘉義から台南まで広がる嘉南平野にすばらしいダムと大小さまざまな給水路を造り、15万ヘクタール近くの土地を肥沃にし、100万人ほどの農家の暮らしを豊かにしたひとです
嘉南平野開発計画
嘉南平野は香川県ほどの大きさで、台湾全体の耕地面積の6分の1を占める広大な土地である。また亜熱帯性気候で1年に2、3回もの収穫を期待できる地域であったが、水利の便が問題だった。降水量こそ年間2,000ミリを超える豊かさであったが、河川は中央山脈から海岸線まで一気に流れ落ちるために、雨期には手をつけられないほどの暴れ川となり、乾期には川底も干上がる有様である。農業生産も天候任せできわめて不安定、低水準であった。
台湾総督府の土木技師であった八田與一は、この嘉南平野に安定した水供給をする灌漑施設を建設することによって、この地を台湾の穀倉地帯にできると考え、「嘉南平野開発計画書」を作り上げた。台南市の北を流れる官田渓の上流の烏山頭に当時東洋一の規模のダムを造り、そこから平野全体に給排水路を張り巡らせるという壮大な計画だった。この計画には、地元嘉南の農民たちも熱い期待を寄せ、出来る限りの経費と労力を自分たちで負担するとまで書かれた嘆願書が何度となく、総督府に提出された。
予算は総額4,200万円、これは当時の台湾総督府の年間予算の1/3以上に及ぶ規模で、内地の政府援助が不可欠であった。内地も米騒動などで大変な時期だったが、1,200万円を国庫補助し、残り3,000万円を地元農民など利害関係者が負担することになった。
東洋一のダム
八田が計画したダムは、満水時の貯水量1億5,000万トン。これは世界有数のアーチ式ダム、黒部ダムの75%に相当する。東京都民の水がめとなっている広大な狭山湖を訪れたことのある人は多いだろうが、これは烏山頭ダムの数年後に完成し、その貯水量は1,952万トン。烏山頭ダムは実にその7.5倍である。
ダムの堰堤部の断面は台形で、頂部幅9メートル、底部幅33.3メートル、高さ51メートル。これを長さ1.35キロメートルにわたって、盛り土で作り上げる。土石を水圧で固めながら築造するという当時世界最新のセミ・ハイドロリック・フィル工法をわが国で初めて採用する。
烏山嶺を超えて、ダム湖に曽文渓の水を引くために、直径8メートル55センチ、長さ4キロメートルのトンネルを掘る。これで毎秒50トンの水を流し込む。当時のトンネルで最大のものは東海道線の熱海の丹那トンネルだったが、それよりも15センチ大きい規模だった。
給排水路は総延長1万6,000キロ、地球を半周する長さで、日本最大の愛知用水の13倍にも及ぶ。さらに給水門、水路橋、鉄道橋など、200以上もの構造物を作る。
八田は大正6(1917)年から3年間、現地調査と測量を行い、大正9年9月1日からいよいよ工事を始めた。11年には当時のダム建設の先進国アメリカに7ヶ月出張して、米国の土木学会の権威と議論し、また最新鋭の土木機械を買い集めた。
外人の鼻を明かせてみろ
大正11(1922)年11月、米国から帰朝した八田は烏山頭工事事務所の所長として、現場に住み込んで指揮をとり始めた。当時、現場で働いていた李新福という人は次のように語っている。
とにかく気宇壮大な、当時ではとてつもない大きな工事でした。それと、みんながいちばん驚いたのは、見たことも聞いたこともないバカでかい機械が工事の主役でした。ダムの周辺には鉄道が何本も引かれており、私なんかも現場では蒸気の機関車にひかれたエアーダンプカーに乗ったものです。
スチームショベルはひとすくい2立方メートルで、これは人間1人が2時間かかって掘り出す土砂の量である。その外にも、蒸気機関車、エアーダンプカーなど、八田が買い付けた機械は、1,000トンを超える。
始めのうちは、日本人も台湾人も、初めて見る機械ばかりで、使い方が分からない。機械と一緒に米国人のオペレーターも来たが、「黄色いサルに覚えられるものか」と考えていたのか、現場の人間には一切、使い方を教えなかったという。八田は、「覚えるのは簡単だ。外人の鼻を明かせてみろ」と口癖のように言って、叱咤激励を続けた。やがてこれらの機械がうなりをあげて、土砂を運ぶようになっていった。
現場には作業員やその家族2,000人が住みついた。学校や病院までも作られ、地元民からも感謝された。八田の子供達も台湾人の子供と一緒にこの学校に通った。工事現場は夜遅くまでこうこうと灯りがともり、徹夜作業も当たり前であった。建設現場では人間関係が大事なことを知っていた八田はよく作業員の宿舎に上がり込んでは、彼らと花札に興じていたという。
「仲間を失った」
12月、先行して進められていた烏山嶺トンネル工事で、ガス爆発事故が起こった。90メートル掘り進んだ所で石油が噴出し、その石油ガスに灯油のランタンの火が引火して爆発したのである。日本人、台湾人あわせて50余名の死者が出た。
八田は事故現場で陣頭指揮を執り、原因の徹底究明と、犠牲者の遺族のお見舞いに奔走した。八田がいつもの作業着姿で犠牲者の棟割り長屋を訪れ、台湾式の弔意を示すと、遺族は八田の言葉をおしいただくように聞き入り、嗚咽したという。八田の「仲間を失った」という悲しみが自然と伝わり、その心情が遺族の胸をうった。工事が続けられるかどうか危ぶまれたが、台湾の人たちは、
「八田與一はおれたちのおやじのようなものだ。おれたちのために、台湾のために、命がけで働いているおやじがいるんだ。おれたちだってへこたれるものか」と、逆に八田を励ました。
八田は工事が終わりに近づいた昭和5年3月、工事のために亡くなった人々とその遺族ら134人の名前を刻んだ「殉工碑」を建てた。名前は亡くなった順か、日本人と台湾人が混じって刻まれている。こんな所にも、八田の分け隔てのない仲間意識が伺われる。
ダム完成
翌12年9月、関東大震災が起こった。死者10万余、全壊家屋12万8,000という大惨事に、台湾総督府も年間予算の30%を復興支援の財政援助を申し出た。その結果、烏山頭ダム工事への補助金も大きく削られ、八田は職員、作業員の半数を解雇せざるをえない事態に追い込まれた。
3年間苦楽を共にしてきた仲間を解雇することは、八田にとって身を切られる思いであった。八田は解雇者の再就職先を探すために、総督府のつてをたどったり、業者の縁故を頼って奔走した。見つけた斡旋先には、工事が再開されれば、優先して再雇用するという条件をつけたという。嘉南の人々に今も語り継がれているエピソードである。
このような危機を乗り越えて、工事が完成したのは、昭和5(1930)年4月であった。大正9(1920)年9月以来、10年近い年月が流れていた。1億5,000万トンの水を入れるのに、直径9メートル近いトンネルでも、40日あまりかかった。
5月10日から満々と水をたたえた烏山頭ダムの竣工を祝う祝賀会が3日間に渡って開かれた。地元民が招待客3,000人を超えて集まったため、会場をもう1カ所増設して収容した。屋台や特設の芝居舞台がにぎわい、花火が打ち上げられ、夜は提灯行列まで繰り出された。
アメリカの土木学会からは「八田式セミ・ハイドロリック・フィル工法」に関する論文を求められ、学会誌に掲載された。八田の独創的な技術がアメリカでも認められたのである。
農作物の増産
祝賀会の終わった5月15日、烏山頭ダムからの給水が始まった。八田の合図でバルブが開けられると、直径1.8メートルの放水口6本から、ゴーというすさまじい音を立てて、水が流れ出していく。そして精密な測量に基づいて、勾配1%とほとんど水平にしか見えない水路でも設計通り水が流れていった。しかし15万ヘクタールの土地にはりめぐらされた全長1万6,000キロメートルの水路に給水する水利運用が軌道に乗るまでには3年かかった。
また100万人近い嘉南平野の農民は、計画的な水利に基づく米作りは初めてである。東京農業大学出身の中島力男技師が農村を巡回して、苗代作り、田植え、稲の消毒から農機具の使い方を指導した。
計画した農作物の増収が実現するには、ダム完成後6年かかった。しかし、水稲作は工事前の収穫高10万7,000石が65万7,000石と6倍に、甘藷作は138万石から288万石と2倍に伸びた。地元農民の増収金額は年間2,000万円以上に達し、彼らが負担した事業費2,739万円の返済も容易であったろう。なお総督府の補助金は2,674万円に上った。
八田夫妻の最期
烏山頭ダムの完成後、八田は台北に戻った。昭和14(1939)年には、技師として最高の官位である勅任官待遇を与えられた。台湾がさらに発展していくためには、現地人技術者の養成が不可欠だと考え、自ら奔走して台湾で最初の民間学校として「土木測量技術員養成所」を台北市内に作った。この学校は年々発展して、現在も「瑞芳高級工業職業学校」として、毎年多くの技術者を社会に送り出している。
大東亜戦争2年目の昭和17年5月、八田は南方開発派遣要員として、貨客船「大洋丸」でフィリピンに向かった。灌漑の専門家として、フィリピンで綿作灌漑のためのダム建設の適地を調査する任務だった。
5月8日午後7時45分、大洋丸は五島列島沖を航海中、米潜水艦の雷撃を受け、沈没。遺体は1ヶ月以上も経った6月13日、はるか離れた山口県萩市沖合の見島で発見された。7月16日、総督府葬をもって荼毘に付された。享年56。
昭和20年、台北でも空襲がひどくなると、妻の外代樹は子供たちと烏山頭の建設工事で使われていた職員宿舎に疎開した。10年ぶりの懐かしい土地である。敗戦後2週間ほどした9月1日未明、外代樹は黒の喪服に白足袋という出で立ちで、烏山頭ダムの放水口に身を投げた。「玲子も成子も大きくなったのだから、兄弟、姉妹なかよく暮らして下さい」という遺書が机の上に残されていた。享年45。
「偉いおじさん。台湾人の恩人」
嘉南の農民たちは、1946年12月、わざわざ日本の黒御影石を探し出して、日本式の墓を八田夫妻のために建てた。以後、毎年八田與一の命日5月8日に嘉南農田水利会の主催により、墓前での慰霊追悼式が催されている。
昭和6年に工事関係者が贈った八田の銅像も、戦争末期の金属類供出が呼びかけられた頃、忽然と姿を消していたが、戦後、地元民が隠して保管していたのが見つかった。蒋介石政権のもとで、日本人の銅像を隠し持っていることは大変な危険であったが、銅像はそのまま保存され、昭和56年に墓前に設置された。
「百年ダムを造った男」の著者・斉藤氏は1996年、50回目の慰霊祭に参加した際に、近くの官田小学校にも取材に訪れた。ダムの工事中に作られ、八田の子供たちも通った六甲尋常高等小学校がこの官田小学校の前身であった。
教師の話によれば、生徒に烏山頭ダムと八田のことを教えているという。通訳を通じて、人なつこい子供たちに聞いてみると、ほとんどの子供たちが八田のことを知っており、「偉いおじさん。台湾人の恩人」と答えた。若い教師はこう言った。
「日本人にあまり知られていない八田技師に関心を持つのは大変よいことだと思います。それと、八田技師は政治とはなんの関係もない日本人で、台湾人のためにあれだけのダムを造った人物です。日本人はもっと関心を持つべきですね」。 MAG2NEWSより
ぼちぼちと生きているので、焦らず、急がず、迷わず、自分の時計で生きていく、「ぼちぼち、やろか」というタイトルにしました。 記載事項は、個人の出来事や経験、本の感想、個人的に感じたことなど、また、インターネットや新聞等で気になるニュースなどからも引用させていただいています。判断は自己責任でお願いします。
2016年2月27日土曜日
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