2010年12月26日日曜日

今年1年を振り返り

2010年も後、6日(26日現在)で終わりを迎えようとしている。この1年を振り返る事にした。昨年8月末で京都のSワークを退職し、9月よりH先生のご配慮で今の職場に勤務している。あれから1年3ヶ月が経過した。2010年のスケジュール表を横に置きこの一年を振り返えりたいと思う。
2009年10月13日よりK物センターの方に変わり、1年3ヶ月が経過した。1ヶ月程はDの里で施設の仕事をさせていただき、支援員として仕事をさせていただきました。その後は「K物センターに移り、障害者の人たちと一緒に仕事をさせていただいています。最初の数ヶ月間は、足腰が痛くて続けられるのかと、ふと不安がよぎったりしましたが、慣れない仕事と言うこともあるあるけれど、以前は座ってする仕事がほとんどだったので、足腰が慣れるまでは時間がかかる始末でした。
朝が以前より早く起きることになったのも、最初は辛く感じました。京都の時は、始業時間が9時からなので、7時半には家を出れば十分間に合いましたが、今の職場は8時15からなので、午前6時には起床して、出勤しなければならない。また土曜日は送迎もあるので、6時前には起床して、Tの郷まで行くことになる。慣れるまでは時間がかかりました。今は普通に起床することが出来るようになりました。
1月は行きつけの居酒屋のお母さんが腰の手術をするというので、何度か見舞いに行きました。それからは、その店が閉店状態になり、行きつけの店が一つ減ってしまいました。7月には退院されましたが、まだ足腰が痛いと言うことで、店の方はまだ閉店状態である。また、土曜日の送迎についても友人のTさんに月2回の送迎をお願いをし、H先生の了解もいただき今も続けてもらっています。
2月は、誕生日月、26日で53歳になり、2月は逃げるという月ですので、あっという間に過ぎ去ってしまいました。久しぶりに日帰りでスキーに出かけたのも、この月です。
3月は長男の卒業式、就職先も決まらないまま卒業することになり、親として不安を覚えましたが、今のご時世、卒業生でも就職先が見つからないまま卒業する人が多いと聞き、諦め半分、次の仕事を親として見つけなければならいと思いました。捻挫もしたのもこの月です。妻の足を踏み、4日程仕事を休む羽目になりました。ベトナムからはS氏が日本に帰国するというので、歓迎会を鶴橋で開催しました。多くのメンバーが集まり、わいわいと話に花が咲きました。この月より有給が発生する。10日間の有給。
4月は和歌山で備長炭を焼いている、知り合いのところへ出かける。その人は、以前Z法人で施設長までやっていた人ですが、退職し和歌山で炭焼き職人として長年修業をし、今年になってようやく釜を持つことが出来るようになり、夫婦で出かけました。夏は蛍が一杯飛び交い、自然豊かなところです。家も新築を建て快適な生活をしていました。釜は家から歩いてすぐ近くにあり、その時は釜は閉じた状態で、備長炭を焼いている最中でした。夕食は鹿の肉や農協から買ってきた食材で夕食をいただきました。個人的にはそのような生活にあこがれがあります。帰りは龍神温泉に入り夕方には自宅に帰宅することが出来ました。K物センターのパートのY氏の息子さんの履歴書をH氏の自宅に届ける、今はグループホームの支援員として勤務している。
長男が知り合いの作業所の非常勤として勤務を始める。
職場のN氏が入院することになり、Y氏とO氏とで見舞いに出かけたのも、この月でした。本人の口から「リンパ癌」であると言われ、数ヶ月間は、治療に専念するという話であった。帰りは3人で近くの居酒屋で一杯やりました。
5月は連休に妻の里である、島根に久しぶりに帰りました。何もなく時間の流れが遅く感じました。
6月は民主党の鳩山首相が辞任し、新しく菅直人首相が誕生する。H先生がDの里の理事長を降り、知り合いの人がDの里の理事長になる。◎藤さんはDの里の評議員であるそうで、本人は評議員を下りたいそうで、私と交替をして欲しいと言われるが、「はい」そうですかという分けにはいかないので、ごまかしながら返事をしてしまいました。参議院選挙も公示されたのもこの月です。
Z法人の事務局長が14日にひき逃げ容疑で逮捕される。そのまま、拘留される。突然の逮捕で本人も驚いたと言うことを友人から聞きました。その後はZ法人を退職される。
7月、参議院選挙の投票日、結果は民主党の敗北でねじれ国会が生じてしまう。また、Mつき施設より7月から職会に出席にして欲しいとFAXがはいる。少し緊張気味に職会に望むが、あまり話の内容が以前勤めていた施設と違うので、少しがっかりしてしまいました。
次男が学校の実習でTの郷へ実習へ出かける。担当した職員から来年の就職のために履歴書を出すように言われたと私に話してくれる。市盲協へ勤務していた人(うつ病の為)休職をしていたが、休職の期限が切れ退職し今は失業中とのこと。友人のI氏と相談しZ法人の非常勤として採用してくれるように話をする。結果的には非常勤として採用される。
月末には夏の一時金が支給される。
8月は、次男が肩の手術をする。以前も手術をしたが、うまくくっついていなく再手術することになる。来年2月には右肩の手術をする予定である。9月にベトナムに行くための打ち合わせと手付け金を支払う。Z法人のN氏が8/2日付で退職される。
9月、9/20~24日まで3名でベトナムに行く。これで6回目の訪越である。ベトナムの友人と親交を深め、初日はS氏の招待で夕食をいただく。2日目はクチへ出かける。3日はメコン河ツァーへ、3日には市内観光、戦争跡博物館、大統領府などを見学をする。
R・レーブの総会が行われるが、詳細は聞いていない。ただ、◎尾長男、◎江さんは退任するとのことである。H氏が社長に就任したと思われる。◎藤さんがK物センターの責任者になる。
福井県にいる友人が大阪に来る。4名で昔話に花が咲く。友人も頭髪が薄くなり、お互いに年を感じてしまう。
10月、妻が一人で田舎へ帰る。おばあちゃんの健康状態が心配で出かける。悪ければ大阪に連れて帰ってくると言って出かける。が、やはり田舎生活がいいようである。
処季会をK物センターのY氏とO氏の3名で大同門で開催する。
次男がUの子施設の面接を受ける。結果は内定が確定する。4月からは施設の寮生活を2年程して仕事をすることになる。児童養護施設なので、色々な子どもが施設に来るので、しっかり勉強もし子どもに寄り添いながら仕事をして欲しいと願う。親の気持ちとしては仕事が内定してホッとしているのが本音である。K福祉会とN福祉会合同の理事会の交流会が開催される。詳細は聞いていないが、将来の合併に向けて話し合いのようである。
ベトナムのS氏が帰国する。神戸の友人宅で泊まると言うことなので、仕事が終わり神戸へ出かける。近くの居酒屋で交流し、翌朝は日本橋に出かけ日本製の中古のパソコンを購入される。ベトナムでもパソコンは高級品で日本円で15万円から20万円するので庶民には、手が出る金額ではない。ベトナムの公務員はの平均給与は2万円~3万円程度なので、パソコン1台が半年分の給与に相当する。日本製のパソコンは人気があるそうで、中国製などは質が悪く人気がないとのことである。S氏はベトナムの友人にパソコンをおみあげとして買って帰ると言っていた。S氏は日本橋のどの店に行けばいいのか分らないので私と友人が同行する。ソフマップで中古品のパソコンが見つかりそれを購入される。
ジャパネットたかたで液晶テレビを2台購入する。支払いは冬のボーナス一括払いになる。私の一時金の半分が代金として消えることになる。
11月福保労60周年に参加する。H氏も参加されていて色々と話をする事が出来た。
中旬にはインフルエンザにかかる、仕事が終わりバスの中で悪寒が走る。電車の中でも寒くて仕方がない。家に帰り体温を測ると39.4℃もあり、そのまま布団に潜り込むが、悪寒が止まらないので、毛布をもう一枚かぶり、寝る。寝る前に頓服を服用して寝る。翌朝は37.4℃まで下がるが、それでも夕方には、39℃まで熱が上がる。2日間高熱でうなされてしまった。
次男の20歳の誕生会を12月にすることになる。2人とも20歳になり親としての責任は果たしたと思っている。
12月、インフルエンザの予防接種をする。以前にインフルエンザにかかり高熱はこりごりである。このブログにも書きましたが、インフルエンザが流行の兆しを見せているようである。接種のまだの人は早い目にすることをお勧めします。
K物センターの職員3名で忘年会。テッサの鍋で開催する。少し飲み過ぎたのか、足がふらつき、だいぶ酔ったようである。仕事の疲れもあるかも知れない。また、3名で新年会でも計画することになるかも知れない。
長年愛用していた眼鏡が一部破損する修理を出し、以前使っていた眼鏡を代用として使用する。
長男の就職の件で、知り合いの施設長に連絡を入れる。来年は2名の募集をするとのこと、来年1/7日には施設見学兼履歴書を持参し、次回には面接を受けることになる。出来れば正職として採用されるように願うばかりである。12月中旬に冬の一時金が支給される。妻の一時金も同じ日に出ているが、金額は聞いていない。聞く気もしない。
久しぶりに映画の鑑賞に行く「武士の家計簿」で、お客さんは年配の方ばかりで、私は一人で映画を見ている。
今年最後の墓参りにも出かけた、長男、妻の三名での墓参りである。今年の御礼と来年も健康で生活できるように手を合わせ帰宅する。
介護者の会に参加する。介護のをしている人の会であるが、介護の話はそこそこに、飲み会が本来の目的か、それとも日頃の介護の疲れを取るために集まっているのか、どういう分けか私も呼ばれる、友人がいるので声がかかるので参加することになる。
年末年始は、妙高高原へスキーへ出かける。3年ぶりである。クリスマス寒波で積雪も十分のようである。
という、1年であった。来年はどんな年になるのか分らないが、健康で仕事やお酒が飲めれば言うことなし。友人も4月には退職をししばらくは失業保険で生計を立てるとのこと、その後は年金で暮らすと言うが、何かの仕事の着くとは思うが、働くなら私の下で働きたいと言っている。ベトナムにも行きたいと考えている。まぁ、来年もぼちぼち、やろかという気持ちでやるしかないかと思っている。

インフルエンザ流行入り(予防接種を早く)

ある新聞記事からの抜粋。
医療機関1箇所あたりのインフルエンザ患者数が、流行入りの目安とされる1人を上待ったことが、24日、国立感染症研究所の定点調査で分りました。
厚労省は新型インフルエンザ一色だった昨年とは異なり、高齢者で重症化しやすい季節性も同時に流行する可能性があるとして、注意を呼びかけています。同省等によると、19日までの1週間に、全国約5000カ所の医療機関をインフルエンザで受診した患者数は、1カ所あたり1,41人でした。
都道府県別では、佐賀県が最も多く8.26人で、長崎7.36人、北海道5.87人、大分2.55人などの順となっています。
国立感染症研究所が9月6日~12月12日までに報告されたインフルエンザウイルスを調べたところ、新型243例に対して、季節性のA香港型が446例と大幅に上回っています。
摂取が始まっているワクチンは新型に加え季節性にも対応しており、ワクチンの接種を呼びかけています。
ついでに、ノロウイルスについても、新聞記事からの抜粋で申し訳ありませんが、記載させてもらいます。
施設等で集団感染で死者まででたノロウイルスは、急性胃腸炎を起こす小型のウイルスで、感染力が強く、厚労省によると、食中毒の第一の原因がこのウイルスです。冬に大流行するするので用心が必要です。1~2日間の潜伏期間の後、嘔吐や下痢(水様便)・腹痛などの症状が出て、発熱やだるくなることもあります。子どもや高齢者は脱水症状になり重症化したり、吐いたものが気道に詰まり死亡することもあるそうです。ノロウイルスはアメリカの小学校で集団感染が発生し、ウイルスの存在が確認されました。
感染経路は、食べ物と、感染者の便や嘔吐物、その人にふれたものなどにもウイルスがいるので、二次感染が発生します。貝類は内臓にこのウイルスを蓄積する性質があり、生食は要注意です。感染を予防するためには、インフルエンザのような予防ワクチンはないので、食品を十分に加熱する必要があります。食品の内部温度が85℃異常になるノロウイルスは死滅するので、十分な加熱と手洗い包丁、まな板の殺菌が必要になります。症状が出たら早い目に医療機関に行き、脱水症状を起こすこともあるので、水分の補給は欠かせません症状が治まった後でも数日間は、ウイルスは便などから排出されるので、感染予防には注意が必要です。

私も季節性のインフルエンザにかかり高熱が出た経験があるだけに、この記事に目がとまりました。私はインフルエンザの接種はすませています。これから、流行期からピークまで2ヶ月程かかると言うことなので、来年の1月末から2月には流行期を迎えることになります。
私はノロウイルスにはかかったことはありませんが、前に勤務していた施設では、予防のために塩素を薄めた水をタオルで、拭き掃除などをして予防していました。これも感染力が強いので、かかると症状が治まるまでは、出勤することは出来なくなります。

K物センターでも、今年はインフルエンザが流行り、人手不足に陥ったことがあるので予防接種は、各施設で積極的に行って欲しいと思います。ノロウイルスも同様に注意が必要です。

介護者の会と「狸ばやし」への予約

昨夜は、送迎が終了後京橋へ直行。介護者の会へ参加しました。メンバーはいつものメンバーと+A氏さんも初参加。特に介護の話はなく、平八亭でただの飲み会の名目のような会です。その後はいつものコースでカラオケに行きました。介護の苦労はI氏の母親を見ているので、よく分るつもりですが、実際に介護している人は苦労が絶えないのではないかと思います。
来年の1月13日に行う、送別会の予約を電話で行いました。参加者は5名程度になります。一応、鍋を囲んでの送別会になりますが、どんな話になるか分りませんが、Tさんは勤続年数35年間同じ職場で頑張ってきた人で、とてもすてきな女性です。Tさんの子どもも大きくなり、経済的にも旦那さんの収入で生活が出来るので、退職をするのかと思います。また、職場の精神的な疲れもあることも事実で、職場の中核的な存在であっただけに退職となると、Tさんに変わる人が職場をまとめられるかどうか分りませんが、個人的には残念でしかたありません。
仕事も残すところ3日間、昨日は定時に終わり、利用者は定時に帰ることが出来ました。1ラインだけは少し残業になったようですが、職員とパートさんで回るので利用者は帰ることが出来ました。
スキーの用意もしなければなりません。板と靴は出したので、後は洋服は押し入れから出さなければなりません。クリスマス寒波で雪が降っている事だと思います。先日インターネットで降雪量を調べたら30㎝程度で、この積雪ではブッシュが至る所に出ているので滑りにくい状態ですが、今回の寒波で積雪が90㌢の状態です。

2010年12月24日金曜日

連休で身体も一休み

木、金と連休であった。飛び石の休みより身体の疲れが取れやすい。今日は、特にすることもなく、しょうこにもなくパソコンに前に座りブログを書いている。昨日購入した椅子に座り、パソコンの前に座るのは以前よりは、楽になった。打ちやすくなったと言う方が正しいのかも知れない。腕が疲れない。本を読んだり、パソコンを打ったりと私と犬しかいないので、静かで過ごしやすい。時々犬がじゃれに来るが、おやつが欲しい時に来るので、その時は少しだけ上げると、それぞれのテリトリーの場所に帰って寝ている。
明日は土曜日で送迎である。いつもよりは少しだけ早起きをしなければならないが、今では苦にはならなくなってきた。慣れるというのは恐ろしいような、怖いような、早起きは三文の徳という諺があるように、違った町の風景を目にすることが出来るのも徳の一つかも知れない。仕事の時は早く寝るようになってきた、遅くても午後10時30分頃には布団に入っている。休みの日は、11時過ぎまで起きているのだが、仕事の時は早起きしなければならないので、早く寝るようになってきた。子どもたちは土曜日が休みなので朝早くは寝ているし、次男もアルバイトが昼前からなので寝ていることが多い。自動車教習所は第一段階がもう少しで終了とのこと、冬休みには終了予定なのか?。学生最後の冬休み、アルバイトや自動車教習所で忙しいようである。
今はクリスマスの宅配が忙しいようである。各家庭でピザを購入しクリスマスを祝うのであろうか、いつからクリスチャンになったのかと思わずにはいられない。各百貨店や商店などもクリスマス商戦の真っ直中である。日本人の宗教観が大らかというか、訳が分らなくなる時がある。正月はお寺、神社にお参りをし、結婚式は神式か仏式でやる。何でもOKの宗教観は世界の中でも日本だけではないかと思ったりしてしまう。
平和な日本の象徴か。一神教はテロにつながるから怖い、その神だけが唯一絶対の宗教になると、その宗教が否定されると戦争になることもある。その点、日本は宗教観が広くて大らかなので、いいのかも知れないと思ってしまう。

2010年12月23日木曜日

12月25日は介護者の会

私の友人のI氏は94歳の母親の介護をしながら、労働組合運動を行っています。ディーサービスなどを利用しながら、介護をしているようです。少し認知も入り、大変だと言っていました。私の親は介護をする前にあの世に旅たったので、介護の苦労はありません。
その介護の苦労を語る会を、25日の日にすると言うので、私も来て欲しいと言われています。介護の苦労話をしながら、一杯やるみたで要するに介護を理由に飲み会をする予定です。
私は介護は関係ないからと一度は断ったのですが、どうしても参加して欲しいというものだから参加することになりました。
来年の1月13日には妻の職場の総主任のTさんの送別会と新年会を兼ねて、狸ばやしでする事になりました。本当は1月6日の(木)にする予定だったのですが、日程の調整が出来ず、13日なら参加できると言うことなので、13日にやることにしました。Tさんの地元なので、ゆっくり飲んでもらうことも出来ます。私も仕事の帰りに寄ることが出来るので都合はいいので、光善寺でやることになります。他の人は光善寺まで来てもらうことになるんですが、電車でくれば準急で20分程度で着くのでそんなに時間はかからないと思います。私の妻も参加して欲しいと、総主任さんからの要請でTさんから声をかけてもらうことにしています。6名程度になるかも知れません。鍋を囲みながらの送別会になる予定です。I氏が言い出しっぺなのに、段取りは私の方に回ってきます。本当に段取りをするのが私の仕事だと思っているのかと思いたくなります。I氏の頼みなら嫌とも言えませんから、段取りはちゃんと、やるようにします。

今年も残りわずかになりました。

12月23日、天皇誕生日で祝日。仕事は12月29日までなので仕事は4日間行けばいいことになりました。正月休みは12月30日~1月4日間で初出は5日になります。本当は4日が初出だったんですが、責任者の方が、4日も休んで下さいというので、その言葉に甘えさせていただき休むことにしました。29日から妙高高原へスキーに行くので、帰阪は1月2日の早朝に帰阪となります。3、4日はゆっくりと休養することにします。K物センターも正月はラインが4ラインから3ラインに減るので、休みやすいと言えば休みやすい条件なので、そうなったのかと思います。
年末の成果、注文が多く平日などは24時まで仕事をしているようである。今度の25日は2ラインから3ラインに1ライン増えたという報告が昨日有り、2ラインではさばき、きれない状況のようである。
年末に暇では、K物センターも先行きは暗いなぁと思いましたが、そこそこ注文が入りよかったのではないかと思います。世の中は不景気(円高、デフレ)でなかなか先が見えない状況ですが、K物センターもこの不景気の影響を受けているはずです。ので、今後も厳しい運営を余儀なくされるのではないかと思います。

墓参りへ出かける

家族全員という分けにはいきませんでしたが、長男と妻と3名で今年最後の墓参りに出かけました。
←写真はお寺にある、六地蔵さんの写真です。
今年の感謝と来年度の家族の健康を見守ってくれるように、手を合わせました。
次男はアルバイトに忙しいようです。クリスマス用の衣装を着ながら、バイクでピザの宅配をしています。
昼食は帰りのハンバーグ店でいただき、ついでにカインズホームに行き、金魚の餌と座席と蛍光灯を購入してきました。蛍光灯の本体が行かれてしまい、少しへ部屋が暗いので、新しいのに取り替えました。座椅子は私がパソコンを打つのにと思い購入してしまいました。少し高めの座椅子なので腕が疲れずにすみます。
来年の話をすると鬼が笑うという諺がありますが、来年はどんな一年になるか、次男は就職が決まっているので、寮生活をすることになり、長男もうまくいけば(社福)の作業所へ就職が決まるかも知れません。そうなれば一番いいのですが。決まれば、しばらくは自宅からの通勤となるとは思います。
妻は仕事で忙しいそうなので、仕事に精を出して欲しいと思います。私はどうなるのか?分りません。K物センターに残るのか、違う職場に行くのか分りませんが。どちらにしても、仕事はしていかなければなりません。まぁ、ぼちぼち、やろかという気分で来年も生きていきたいと思います。

2010年12月19日日曜日

車の洗車

久しぶりに車の洗車をした。以前は近くに洗車場があり汚れれば洗車していたが、今はその洗車場もなくなり、車はほったらかしのため汚れが目立つ。仕方なしに車で洗車場へ行く。洗車すればきれいになるのは当たり前、の話。たまには洗車するのも悪くはないが、行った時間が遅かったので、寒い中の洗車はこたえる。洗車が終わればガソリンを入れにセルフのスタンドへ満タンにして、車のタイヤの空気も入れる。ガソリンの値段がじわじわ上がってきている。円高なのにどうしてかと思う。ファンドが先物買いで値を上げているのかも知れない。週に1回程度しか乗らないのでもったい事ではあるが、なければ、なければで不便なので、所持をしている。
墓参りは生駒の山の上なので、車がなければ行くにいけない。子どもが小さい時は、オートキャンプやキャンプ場によく出かけた。今は成人になり行くことはなくなったが、夏などになれば行きたくなる。キャンプをやろうと思ったのは、阪神淡路大震災の被災者の映像がテレビに映り、もしもの時は、キャンプ生活もしなければならないと思ったからである。それ以来キャンプを続けてきたが、今は道具も箱に眠っている。
年賀状を印刷して、ポストに投函してきた。これで年内にしなければならない、私用は終わったと思う。この年になると喪中のはがきを頂くことが多くなった。50も過ぎればそうなるのは当たり前の事である。
それ以外は家の中で過ごす。寒いと出るのもおっくうになる。犬の散歩は息子が行ってくれた。たまには行ってくれやと頼む。

T氏と忘年会

T氏はK物センターの送迎を無理を言って月に2回送迎をお願いしています。慰労も兼ねて昨夜、忘年会を行いました。息子も非常勤で働いているので、その御礼も兼ねて行いました。店は週末と言うこともあり満員状態でした。S・M作業所の将来展望のことや、今後どの様な事業展開をしていくのかを聞きましたが、今のところ目先のことで将来を見通しての事業展開は考えていないと言うことでした。S作業所に利用者を取られ放しで、やってられないはと言っていました。S・M作業所として魅力ある作業所にしていかないと、ますます衰退していくのは目に見えています。NPO法人から社会福祉法人への移行も視野に入れて、作業所を運営していかないと、色々な事業は出来ないというアドバイスもしましたが、今の所長がそこまで考えていないと言っていました。
(社福)に移行しようとすれば、土地や建物など新たに取得しなければなりませんし、資金も必要になりますが、他の作業所などは、借金をしてでも社会福祉法人へ移行しているので、腹をくくってやる必要があると私は思うのですが、なかなかそこまで決意できないようです。
一般法人になれば、職員も増え、色々な事業の展開も可能になります。グループホームの運営やヘルパーステーションの運営など本体と一体になった事業が可能になります。NPO法人でも可能ですが、やはり(社福)とNPO法人では、格が違いますし、利用者の親の信頼も違ってきます。
今年も残り2週間、年賀状を印刷しなければなりません。完成しているのですが、印刷がまだで今日にも印刷をしようと考えています。

2010年12月17日金曜日

長男が来月に施設見学をする

長男が私の知り合いの施設見学を来月に行くと、私に言ってくれました。電話で施設長に一度施設を見学をしてから1月か2月には面接を受けることになる。採用してくれるかどうかは分りませんが、今の職場では常勤になる見通しはなく、正職になるためには違う施設で面接を受けるしかありません。うまくいけば正職に成るかも知れませんが、最初は給与は低いかも知れませんが、現状で満足することなく、前に進んで欲しいと思います。
本当にやりたい仕事は、やはり動物関係の仕事だそうです。沖縄でスキューバダイビングの仕事をつきたいと言っていました。お客さんと一緒に潜り、きれいな海と魚の鑑賞をするのが、やりたい仕事だと言っていました。スキューバダイビングの資格を取得し、沖縄に行きそんな仕事をして欲しいと思います。自分の夢はあきらめないで、追求して欲しいと親ながら思います。25歳までには動物関係の仕事が見つかれば、そちらに行きたいと言っていました。それも、いいのではないかと思います。

Tさんの送別会

妻の職場の総主任Tさんが、今年度で勇退されることになりました。本来ならば今年の3月末で退職を希望されていたのですが、色々な方の説得で1年伸びてしまい来年の3月末で退職と言うことになりました。私の友人のI氏からメールが入りTさんの「送別会」をやろうという提案があり、大久保も出席をして欲しいと言われたので、来年の1月6日に(木)に光善寺駅近くで「送別会」を、職場のY氏と行っている。狸ばやしに行こうかと考えています。友人はわざわざ光善寺まで来てもらうことになりますが、その人が言い出したので、無理を言ってきてもらうことになりました。Tさんの家は光善寺の近くなので、参加しやすいと思い狸ばやしを選びました。
また、ひとり優秀な人間が、Z法人から辞めていきます。まだ、55歳の女性で職場にはなくてはならない存在の人です。人をまとめたり職場の雰囲気を丸くしてくれたりして、欠くことは出来ない人なのですが、仕事に限界を感じたのかも知れません。残りの人間は自分の出世しか考えない人が多いので総主任のポストを巡り一悶着ありそうな気がします。私には関係のない話ですが妻がいる職場なので、妻の愚痴も聞かなければならないので、愚痴を聞く程、嫌なことはありません。まぁ、仕方ないですね。職業選択の自由は憲法で保障されていることだし、辞める辞めないは本人が選択できることですから。しかし、退職されることについては残念でしかありません。

今週の動き

火曜日に銭湯に行きました。少し疲れ気味大きなお風呂に入り、疲れを取ろうと思い近所の銭湯に行きました。特に電気風呂は大好きで、痛いところを当てると、とても気持ちがいいので、疲れたなぁと、感じたら銭湯に行って電気風呂に入り身体を癒しています。最近は銭湯が少なくなりました。昔なら、近所に3軒ぐらいはあったのですが、今は駐車場になったり宅地になったりしています。唯一残っているのは私の家の近所にある銭湯やさんだけになってしまいました。内風呂が主流になってきているので、お客が少なくなり採算が合わなくなってきているみたいです。銭湯は残して欲しいと切に願います。私も年に数回程度しか行かないので、無責任な事かも知れませんが、やはり残して欲しい施設です。
K物センター内にある事務所の机の配置が変わりました。責任者の方の思いを色々考えました。①私は時間中は現場に出ているので、事務的な仕事は責任者がするので、変えたのか。②私が移動することを前提に机の配置を換えたのか。③食事の時に机が足りなく成るので、空いている机を活用するためなのか。自分なりに思いを巡らしました。結論は出ませんが、時間がたてば答えが出るのではないかと思います。
木曜日は狸ばやしへ、職場の人と飲みに行きました。入った時には、店は空いていたのですが、時間がたつにつれて、満席になり盛況な状況です。ネタがいいのか味がやはり他の店とは違う、とても美味しい料理を頂きましたY氏も一時金の件で、O藤さんを通じて、同じパートさんとの支給額が違うので、電話を入れたそうである。一応、今月の給与で調整するということで決着が付いたようです。同じ仕事をしているのに、支給額が違うのは問題があります。どこかで調整をしなければいけない課題です。
今日(金曜日)は久しぶりに梅田に出て、映画「武士の家計簿」を見に行きました。お客さんは年配の方が多く、私はまだ若い方です。ちょうど幕末の時代で、その家は代々そろばん侍で、藩の会計を一手に引き受けていた家柄です。その家の借金も増えてきたので、売れる物は全て売り借金を減らしたという物語でした。何時の時代も家の家計は大変だなぁと感じましたし、我が家もいらない物は買わないようにしなければと自分に言い聞かせました。

2010年12月12日日曜日

友人は疲れ気味

友人のI氏が大会が今日終了し疲れ気味とのこと、この間、東京や大会文章の作成のために休みを返上して、作ったのでその疲れが大会終了後に来たようである。酒が飲めないと嘆いていました。書記長から副委員長になり、来年4月には定年を迎えます。失業保険と年金で生活をすると言っていましたが、友達としては少し心配なところもあります。何とかするとは思いますが。
私も今日は一日パソコンの前でブログを書いたりして、過ごしました。少しは疲れが取れた感じです。足がパンパンだったのが、少しは楽になりました。年ですね。
また、1週間が始まります。無理をしなく自分のペースで仕事をこなしていかないと長続きしないと思います。ぼちぼち、やろかという感じで仕事をしていきたいと思います。

N氏の報告

以前私が勤めていた、Z法人のN氏は交通事故を起こし、その責任を取り、自己退職をした。今は仕事もなく失業中である。N氏はZ法人の幹部の一人、将来は理事長になると見られていた人物である。私はいつも彼のホームページを閲覧している。今しかできないことを、今やることにしているとの事。私はN氏の奥さんとも25年間一緒に働いていた。そのN氏とはN学園の時も一緒に仕事をさせていただいた。
このご時世でなかなか仕事が見つからない様子。全国の老人関係の業界の幹部もしていたので、地方から施設長に来て欲しいという連絡はあるらしい、大阪を離れるのに拘っているとの事。私ならそのような声がかかれば喜んで行くことにする。仕事をしてなんぼである、色好みなどしていられない。週末に家に帰るか、月に一度2泊3日ぐらい休みを頂き、大阪に帰ってくればすむことである。奥さんが働いているから、当面生活には不自由はないと思われるが、恐妻家の奥さんのことだから、いつも怖い顔をしているのではないかと想像してしまう。
その人と私を比較すると、N氏はZ法人の幹部にのし上がり、私は平職員のまま仕事をしていた。
別にうらやましいと思ったことはない、人生色々、一番の人がいてビリの人がいるのがこの社会。全員が一番では社会が成り立たない。私の好きな言葉で「一寸先は闇」という言葉が好きである。どこでどうなるか分らないから、楽しい反面、怖さもある。その人を見ていると本当に「一寸先は闇」である。これから、幹部として仕事をバリバリしているはずが、交通事故という、思わぬ事で人生が大きく変わってしまった。一番になり最初にテープを切ったのに、目の前に虎がいて食われてしまった感じである。私も「一寸先は闇」にならないように、気をつけないと何時、どうなるか分らない。ビリでいると後ろから虎が追いかけて食われてしまうかも知れない。でも、そんなことばかり考えて生きていても仕方ない、なるようにしか成らないと割り切るしかないのではないかと思ってしまう。
H先生にもどうにかならないものかと相談したこともあるが、どうも私は人の世話をするお節介なところがある。H先生も私にの相談に困ったのではないかと思う。
友人のI氏に言われた、彼は全国的に名前の知られた方だから、大久保が必要以上に世話をやくことはないと言われる。それもそうである、特に頼まれもしないのに、勝手に動いたとなればN氏も迷惑な話である。それ以来、特に何もしていない。今は、そんな気もなくなったのが本音である。
若い人の相談にはのっている。将来がある若い人が、仕事もなくプータローしていては、日本の国の損失になる。若い人に働いてもらわないと、私の年金がもらえなくなるどころか、減額されかねないので、若い人にバリバリ仕事をしてもらい社会保険を国に納めてもらわないと、私が年を取った時に困るので相談には、のるようにしている。しかし、スーパーマンではないので、全てうまくいくとは限らない。

今日は日曜日

今日は日曜日である。昨日、O氏から日曜日はでかけるんかいなぁ、と聞かれる。久しぶりに映画「武士の家計簿」でも見にいくかもしれないと答えるが、昼前になってもパソコンの画面の前に座っている。仕事の疲れが取れないせいかこたつに置いてあるパソコンの前に座っている。、毎日1万歩以上も歩く上にオリコンを運ばなければならないので、疲れるのは当たり前、身体が休息を求めている。これも年のせいかもしれないと思ってしまう。
仕事の時は電車通勤なので、休みの日まで電車に乗りたくないと身体が拒否をしているのかも知れない。身体は正直である。電車よりも車通勤が出来ればいいのだが、車は前にも書いたとおり好きなので車で出かけるのは苦にはならないが、電車みたいに本が読めないのが弱点である。
頭は元気である。ブログを書く余裕が頭にはある、だからこうしてせっせと書いている。よほどの用事がない限り、最近は休みの日は家で過ごすことが多くなった。前はコーナンやデスカウント店に良く出かけた。上新電気店にも良く足を運んだが、最近は、欲しいと思う機器や商品がないので、行くことも少なくなってきた。世の中不景気な上に、私のような人間が増えれば余計に不景気に輪をかけてしまうことになる。申し訳ないと思うが新商品の開発をして欲しいと個人的には思っている。それにインターネットで商品が買える時代である。わざわざ店に足を運ばなくても買えてしまう。インターネット商売が増えるのは私みたいな、無精な人間が増えたためなのかも知れないと思う。
家には、犬2匹と私のみ、妻は仕事、子どもはどこに行ったか知らないが、不在である。テレビも同じ内容の番組ばかりなので、見る気もしない。もう少し違う内容の番組を制作して欲しいと願うが、こればかりは私の思いは通じはしない。だから見ないことにした方が、ストレスが溜まらない分楽である。
このように、好きなことばかりをブログ書いている。パソコンオタクになりかかっている、先日は、無線式のキーボードを上新で購入した。職員会議が早く終わり時間つぶしに、ちょっと寄り道をした。特に欲しいと思ったわけではないが、パソコンの配線ばかりで、それを解消しようと思えば無線で打てるキーボードがあれば、少しは解消するかと思い、3900円で買ってしまった。
養老孟司さんの本を2冊買ったが、もう読み切ってしまった。また、アマゾンで新刊本を捜し注文することになる。今度は同じ本を2冊買わないように注意が必要である。最近は、電車の中で本がないとどうも居心地が悪い、時間つぶしにはもってこいの読書の時間である。その為、新快速に乗らず、準急で通勤している。職場には遅れることがないので準急で充分間に合う。人も少ないし、座れる確率が高いので、準急に乗車しているが、時には新快速に乗ることもあるが、人が一杯で、枚方あたりでようやく座れる有様である。

利用者の日報を書き始める

11月の職員会議で、実習生さんの日報を書いて欲しいと要望される。日報のフォーマットが送られてこないので、そのままにしていたが、12月の職員会議でその日報のフォーマットを頂いた。
K物センターで実習に来ている利用者さんの日報を、昨日より書き始めました。全員で6名分(新メンバーが増えれば7名になる)になる。実習内容の事を書くのだが、午前と午後の作業内容を箇条書きにして書いている。あまり詳しいことは書けないが、どの様な作業をしたのかを記入している。午前中はラインなら何ラインと書いたり、午後からは減箱ならば減箱と書いたりしている。特に変わったことがあれば特記として書いたりもする。日報のフォーマットは先日の職員会議時に頂いた。それのフォーマットを自分のパソコンに書き、昨日より書くようにしている。
Mさんは昼食をほとんど残している。年齢も52歳なので、歯がないのでかみ切れないのかも知れない。作業動作もゆっくりであるが、自分のペースで作業をしている。減箱も遅れることなくドーリーに積んでいる。Iさんは16:30分になれば帰れると聞いている。作業も少し慣れてきたようであるが、続いて欲しいと思うばかりである。今後、新メンバーが後一人増える予定である。大阪組が主力の実習先、地元のメンバーが主力にならなければいけないと、私は思うのだが、なかなか切り替えが難しい。今後の課題である。
私が職員会議に出るようになり、実習先の状況を報告している。その甲斐あってか実習先の様子が分るようになったと施設長さんが話をしてくれた。問題点も指摘している、12月に行われた行事について、配慮をお願いしたいという内容の報告文章を職員会議に出した。土曜日は最後までやりきりなので、実習生さんが3名も欠席すると、職員やパートの人がラインに入らなければならないので、他の仕事が出来ないので、12月に行事を入れるのを配慮して欲しいと報告した。一応、12月には、行事を入れないようにするとのこと、報告の成果があってよかった。
実習先に自分専用のパソコンも持参しているが、書く時間がないので自宅に持ち帰り書くようにする。忘れぽいので、メモを持参しそのメモに書いてパソコンに移し替えをしている。

2010年12月11日土曜日

K物センターは今日も残業

年末を迎え、注文数が増えているのか、今日も残業になってしまった。月~木は定時(16:30)に終了するが、土曜日だけはやりきりなので、残業になってしまう。先週よりは早く終わるようである。私は18時に上がらしてもらった。責任者が上がって下さいと言ったので、その言葉に甘え仕事を終了する。予定では18:45に終わるようである。
仕事が終われば腹が減る、樟葉のうどん屋で腹ごしらえ、その後は、いつもの△文へビール1本とどて焼きを頂き、すぐに帰る。店はガラガラ、多分忘年会の影響だろうか、大将は機嫌が悪いみたいである。ガラガラなのが気に入らないのかも知れない。年末である、こんな時もあると思えばそれでいいのではないかと私は思ってしまう。
家に帰り、風呂に入りパソコンに向い、年賀状の文面やブログなどを書いている。横には焼酎は欠かせない。少し疲れ気味である。飲み過ぎか、仕事の疲れか両方であろう。
今年も後2週間あまり、子どもの時は正月が楽しみであった。お年玉を頂くことが嬉しかった。、今は正月も連休のように感じてしまっている。年のせいかもしれないが、普段とあまり変わりはしない。コンビニは開いている、昔は店を閉め閑散としたものであるが、今は普段と何ら変わらない。便利になった分、何かを置き忘れてきているように感じてしまう。
信州の夜は寒くて夜は歩けない。宿でこたつに入りテレビか酒を飲むしかない、不自由みたいであるが、外で凍えるよりはそれが一番の過ごし方になる。眠たくなれば布団に入り寝るだけ、誰も文句は言わない。他のなかまは酒盛りで、忙しいので、一人や二人、寝たからと言って誰も文句は言わない。信州にいる時は身体を動かしている分ご飯がうまい、朝から2杯はおかわりをする、普段では考えられない食欲である。特におかずがいいということでもないのだが、ただ、朝ご飯がうまいのは、何でなのかと考えてしまう。空気が違うのか気持ちの問題なのかは分らないが、ご飯がうまいのは事実である。

2010年12月10日金曜日

長男と夕食

今日は妻が夜勤のため、近くの居酒屋へ夕食兼飲みに行きました。夕食の用意はして出かけているんですが、食べなかったので妻の怒りの顔が目に浮かびます。
話は仕事のこと、趣味の話、長男のやりたいことなど話をしてくれました。25歳までには、自分のやりたい仕事を見つけて欲しいと言いましたが。やはり動物の仕事かスキューバダイブングの仕事をやりたいし、その為の資格も取りたいと言っていました。自然を相手の仕事がしたい見たいです。それはそれで、結構なことだし必要な資格を取ってやって欲しいと思います。
年末にはスキーに一緒に出かけます。ボードをするそうです。お父さんもボードをしたらいいのではないかと言われましたが、この年になりスキーは板で滑るのが一番、なまじっか違う事をすれば怪我の元なので、スキーに1本にします。お父さんの趣味は何かと言われました。取りあえずパソコン、読書、等々と言いましたが、長男はスポーツ(サッカー)が趣味とのこと、サッカーをやると嫌なことは何もかも忘れるので、一番にいいと言っていました。親子の会話は、必要なことだし年齢も21歳で一緒に酒も飲めるようになり、楽しみが一つ増えました。次男は自動車教習所への通いと、アルバイトで忙しいようです。次男も20歳になり一度、一緒に飲みに行くことにします。

インフルエンザの予防接種を受ける

先日、インフルエンザの予防接種を受ける。前に季節性のインフルエンザにかかり高熱が出た。もうこりごりである。予約もなしに行ったので、受けられるかどうか分らなかったが、アンプルがあったので受けることが出来た。注射の跡が今でも痛い、やはりきつい薬だと思う。代金は3000円かかったが、高熱でうなされることを考えると安いものだと思う。
一時金が出る予定である、2ヶ月分が支給される。ありがたいものである、長男も一時金が出たそうである。総額18万円、手取り15万円である。息子が煙草2カートンと焼酎をプレゼントしてくれた。感謝、感謝である。
一時金が出ない会社もある、P協の下請けのM会社はパートやアルバイトの人には一時金が出ないと言っていた。正職の社員には一時金が出るとのこと、やる気も出ませんわ、と嘆いていた。それに比べればありがたいとつくづく思う。P協のパートさんには1ヶ月半の一時金が出るそうである。M会社の会社もパートやアルバイトさんに寸志でも出せないものかと思うが、M会社もギリギリの採算で寸志どころではないかも知れない。よその会社のことを心配するのは余計なことだと思うが、モチベーションを高めるためにも、必要だと思う。ちなみにR会社はパートの職員さんにも寸志程度は出る。
T福祉法人も一時金が出たとのこと、私が紹介したY氏の息子さんにも寸志程度(10万円)の一時金が出たとのこと、Y氏から御礼のメールが入る。早く正職になれればいいのだが、その時はきっと来ると思う、それまでは、「辛抱、努力、根性」で頑張って欲しいと思う。

長男の就職について

岡山の作業所へ行くのはお断りをした。送られてきたメールを見て労働条件の悪さにびっくり、賃金が13万円+職能給5000円、社会保険は国民健康保険である、今行っている作業所は、職場の健康保険に入っているし、年金も厚生年金である。賃金も手取り13万円はある。非常勤のままではいけないと思い、知り合いの施設長にメールを送り、来年度の職員募集について聞いてみた。来年度は、2名の募集を計画しているとの事、来年になれば、一度面接に行くように長男に話をすることにする。大阪市内であるが、堺に近いので、通勤に時間はかかるが正職として採用してくれるのなら、言うことはない。
施設長に電話を入れる。私の息子だから面接するのではないとの返事、ありがたいことである。

忘年会を開催

職場の有志で忘年会を開催しました。今年一年の慰労を兼ねての忘年会。3名の少人数ですが、気のあったメンバーが揃いわいわいと話をしながらの2時間でした。話はやはり仕事の事がメインになりますが、年末を迎え注文量が増えている。今週がピークとのこと、今週の土曜日は残業になると思う。
職場のPCにこのような事が書いてあった。見ようと思ってみたのではない。一日の集計をPCに書こうと思って開いたら以下のような内容の文章が書いてあった。Rの収入は増え入るが、赤字になっているとのこと、正規職員が2名もいるのでその分の人件費が赤字の原因となっているそうである。対策として、①正職の職員をどちらか1名が出向先の施設に戻るか賃金の安い人と入れ替える。②送迎も昔は1名であったが、今は2名(土曜日だけ)本来送迎してくれる人が、月~木までしかやらないので、私の友人に無理を言って月に2回送迎をお願いしている。それ以外の土曜日は、職員が送迎をしているが、これには何ら超勤は付かない。労基法違反の状態である。③責任者が◯藤さんでなくてもいいのではないかと書いてあった。責任者がやる気がないのかとふと思ってしまう。家の事情もあるとは思うが、責任者としての任を果たして欲しいと思う。この内容を誰に報告するのか分らないが、D施設の施設長に報告するのか、それともオーナーに報告するのか分らないが、正職が2名もいらないとなると、私がどこかに行くことになると思う。オーナーからは、K物センターには、1年か2年程度は行って欲しいと言われているので、変わるとなると私になるのではないかと思う。
M施設の職員会議で、出向先の現状報告を行った。12月に行事をするのを他の月にして欲しいと要望した。施設側もOKとの返事であった。

2010年12月5日日曜日

岡山の作業所の労働条件

今回紹介するのは私の妻が18年にわたって指導員をつとめてきた作業所です。

労働条件は大阪に比べて大変見劣りがします。ワーキングプアと言ってもいいです。
市町村合併で労働条件も運営も大変苦しくなっています。
でも若い後継者を探しています。ほかの場所は紹介できません。悪いけど自分であたってください。

※作業所名:小規模作業所 Sつき園(NPO法人)

岡山市   

○給料:13万円+職務給(5,000円) 今のところ
 ボーナス:なし
 国民健康保険
 通勤手当 10km以上3,000円
○試用期間 3か月
○有給休暇 6か月 10日 以後1年ごとに1日 最高20日
○勤務時間 8:15~17:00
        (利用者送迎の場合は8:15~17:30 超勤扱い)
○特別休暇 結婚、忌引きなど
○夏休み 8/10~18日 冬休み12/27~1/5
○普通自動車運転免許必須
○現在 利用者9名 職員1名 パート1名 送迎パート1名
○所長 K美彩子

賃金は低いですが次の事業展開と後継者確保に向けて若い力を期待しています。
住居など細かいことは今後相談です。すぐそばには田んぼが広がる田園地帯です。

このメールを息子に見せたところ、ボーナスが出ないのは苦しいと言っていました。今回は申し訳ないがお断りするメールを送りました。
他の仕事を見つける事にするようにしたいと思います。

自立支援法「延命」を強行

新聞報道から抜粋
12月3日障害者自立支援法を「延命」する法案が3日参議院本会議で民主党と自民党、公明党、みんなの党などの賛成多数で可決成立しました。社民党、共産党などは反対しました。これに先立つ参院厚生労働委員会の反対討論の中で、自立支援法訴訟の原告らと政府が結んだ基本合意で、民主党政権が人間としての尊厳を深く傷つけたと自立支援法に反省を表明したにもかかわらず、「延命」法を強行することに厳しく批判。「つなぎ法案」としながらも自立支援法の廃止は明記されず、自立支援法の最大の問題である「応益負担」の現状を変えるものではないと批判。「つなぎ」と言いながら障害児施設の「一元化」など抜本的改訂も盛り込まれていると指摘。新しい法律の制定を目指して検討が行われている。障害者制度改革推進会議の議論を拘束しかねないと述べました。法案を国会最終日に提出し、当事者からの意見も聞くこともなく、僅かばかりの審議で強行することは、「私たちの事を私たち抜きで決めないで」という障害者の願いを踏みにじるもので断じて許されないと強調しました。
自立支援法が「延命」法案が成立しました。審議時間も僅かで法案が成立したことに強い怒りを覚えます。

アマゾンで本を注文する

先日、大好きな著者について書きました。その方の本をアマゾンで新刊本を2冊買いました。それは、それでいいのですが、どういう分けか同じ本を2冊も注文していることが、後で分かりキャンセルしようにもすでに手遅れ、早便で配達を頼んだので、キャンセルが効かない。その一冊を友人に格安で買ってもらうことにする。1155円を500円で販売する。友人もOKの返事でヤレヤレ、インターネットで注文する場合は、注意が必要であることを改めて知らされた。

プリンターのインクが切れたため、ヤマダ電機は買いに出かける。ついでに、インターネットの配線も買うことにする。いつものパソコンを使っているところが、物でいっぱいな状態でテーブルに移動してパソコンを使用するとなると、配線が短くインターネットが使えなくなるので10㍍の配線を買ってきた。無線LANを使用しているが、どういう分けか無線LANが繋がらない。もう一台はちゃんと繋がっているのに、何度やっても繋がらないから有線でインターネットに繋いでいる。
日曜なのに店の中はそんなに人がいない。エコポイントが半減になったので、買い物をする人がいない。反動からか買い物客が少なくなっているように感じた。

眼鏡も修理に出した、3日ぐらいかかるそうである。それまでは、以前使用していた眼鏡を使うことになる。その眼鏡を買って8年が経過しているので、眼鏡の部品が劣化してきているみたいである。その眼鏡は自分の顔に合わせて作っているので、ずれることはなくいつも同じところで見ることができる。汗をかいてもずれることもないので、いい眼鏡である。

友人I氏は、昨日から今日にかけて東京に出張中、組合の春闘討論集会に参加とのこと、今帰りの新幹線であるとメールが入る。今月の大会で書記長から副委員長になるとのこと、来年4月には定年を迎え、しばらくは、失業保険で飯を食うそうである。失業保険が切れれば、年金生活に入る。仕事は何かするとは思うが、とりあえず失業保険とその後は年金で生計を立てる。
友人が死んだ時は、焼酎を棺に入れてくれと言われている。お通夜は、酒盛りをしてみんなで酒を飲み見送ってほしいと言われている。その前に私があの世に行くのが早いのではないかと思っている。一寸先は闇、見えない、見えないから生きることができる。自分の命日を分かっている人などいるはずがない。分かっていると生きる気持ちが失せてしまうだろうし、死ぬ前にやりたいことをやるか、猛烈に仕事をするか、猛烈に治療に専念するかもしれない。私も2/3の人生が終わり、残された時間は限られている。今は、読みたい本をできる限り読み、仕事はぼちぼち・やろかと言う心境である。仕事をさぼろうという気はないが、仕事馬鹿の人間にはなりたくない。P協の職員やR通の職員みたいに仕事ばかりしていると、仕事しか価値観を見いだせない人間になるのではないかと思ってしまう。遊びや趣味、酒を飲みながら仕事をする人間になりたいと思っている。一生懸命に仕事をしている人には、失礼なことと思いつつ書いてしまいました。

眼鏡が一部破損、K物センターの人員配置

昨日、仕事中にオリコンがすり落ち眼鏡に当たってしまい、アームのところを破損してしまう。何年も愛用しているので、少し劣化していたのかもしれない。今日、眼鏡屋に行き修理を依頼する。

昨日は土曜日なのでK物センターの仕事はやりきりなので、PM7時15分に終了。残業である。年末を迎え、注文が多くなっているのか、別にS協で購入しなくても一般のスーパーで買った方が安いと思うのだが、冷凍部門も同じような時間帯で終了したようである。何時間もオリコンを作っていると背中の筋肉が張ったように痛くなる。慣れれば少しはましになると思うが、年を感じてしまう。
実習生が3名も休んでしまったので、昼間の仕事も職員がラインに入らなければならなくなった。職員がラインにはいると、ドーリーやオリコンの整理や支所からの帰ってくるオリコンの取り出しもできなくなる。リサイクルの整理なども時間を見て整理しているが、ついつい後回しになってしまう。
今度「Mつき」の職員会議で、土曜日に行事を入れる事について、配慮をお願いすることにする。そうでなくても、土曜日に休む人が多くなっているので、人手不足なる。最低でも20名はいなくては、回らない状況を理解してもらう必要がある。ラインは最低でも2名の配置、ラインは4ラインなので8名は必要、減箱で4名、洗浄やZP作りで3名、リサイクル部門で5名(人員が足らないとリサイクル部門で人の調子をする事になる)、合計20名は最低限必要である。補助として職員やパートさんが休憩時間や食事時間にラインにはいるので、なんとかまわる。やはり、作業所の職員はK物センターの仕事の内容を理解していないと思われる。一度、交代でもいいから一日、K物センターに来て、仕事の内容を理解してもらうことはできないかと思ってしまう。実習生が休んだりすることには別にかまわない、職員やパートさんも休んだりしているので同じである。

2010年12月3日金曜日

犬の散歩

風が強く、散歩には不向きな状況でしたが、犬が散歩をおねだりするので行くことにした。仕方なしにT緑地へ散歩へ行く。案の定、公園には人が少なく快適ではあった、犬は水を得た魚のように公園内を走り回っていました。いつものコースを歩くと風も強くなり、いつもよりは早い目に家に帰ることにしました。犬の方はまだ居たい様子でした。
18時のニュースでペットにも税金をかけるとの案が出ているみたいです。こんな事を考えている民主党は次回の総選挙で、政権の座から落ちることは間違いありません。殺処分の費用をその税金からまかなうとのこと、何を考えているのや真面目に飼っている人が何故、負担をしなければならないのか理解に苦しむ。他に無駄があるだろう、民主党さんよそんなアホな税金を考えるよりも、高額所得者から、ちゃんと税金を取りなさい。
風の影響で落ち葉が広がり、寒々とした公園内を歩くのは余計に寒く感じさせます。欧州は大寒波で交通がストップしたり、生活に影響が出ているとのこと日本でも大寒波が来れば、雪の影響で交通網はストップしてしまうことになります。地球の環境が狂いだしたのか?

今日も少し早起き

目覚まし時計を、仕事の時の設定のままで午前6時に時計が鳴る。思わず今日は仕事かと思ってしまい目が覚めてしまいました。よく考えれば、今日は仕事が休みと分ると、ホットしてまた、一眠りしてしまい、今度は9時過ぎに目が覚めてしまいました。起きると私と犬が2匹、「ふく」が顔をなめてくるので、寝ていられなく、起きてブログを書くことにする。休みの日ではないとブログの更新が出来ないので、休みの日にはまとめて書いている。
休みの日にブログを書くことが、習慣になってきた。1週間の出来事や家族のこと、仕事のこと、自立支援法の動向など思いつくままに書いているので、むちゃくちゃなブログである。
R・レーブのO氏はパソコン教室に通い出したとのこと、プリンターもいかれてしまい、今日、ヨドバシ・カメラで新品を買うと昨日言っていた。パソコン教室に通うとは、熱の入れようが私たちとは違うみたいで、向上心に溢れていて感心してしまう。私は、自己流でPCを覚えたので、教室には一度も行ったことがない。色々な資格が取得できると言っていたので、興味はあるが、何せ軍資金がない。分らないことは本を読んで理解を深める方なので、いつもそうしている。本を読んでいても分らないことが多いので、もう少しわかりやすい本を出版して欲しいと願う。
Y氏は今日はゴルフとのこと、私は生まれてこの方一度もやったことがない。やったことがないので、何も言えない。広いところで一つのボールをホールに入れる位は分る程度である。
ついでに自分の趣味は何か、パソコン、キャンプ、読書(乱読)、スキー、車も好きである。スキーは若いときは年に何回か行ったりしていたが、今は年末・年始のスキー程度になっている。車も1週間に一度乗る程度で、ほとんど車庫に止まっている。読書は、今は経済の本を集中して読んでいる。樟葉の書店や京橋の紀伊国屋に顔を出し、めぼしい本を探している。一番好きな著者は養老孟司さん本で、自慢ではないが9割以上は読んでいる。「バカの壁」以来の養老さんの本が大好きになってしまい、新刊本が出れば必ず買って読んでいるが、最近は新刊本が出ていないので寂しい気がする。インターネットのアマゾンで新刊本の検索などもしている。新刊本が出ていれば注文してして送ってもらう事にしている。、昔買った本を再度読み返したりもしている。玄侑さんの本も好きである。坊主の方で、生き方とか考え方に共感してしまうところがあるので、友達のI氏にその話をすると出家して坊主になれと言われる始末である。
本の整理もしなければ、部屋が本だらけで、私の部屋を子どもが占拠してるので、整理が出来ていない。岡山に就職が決まれば、掃除と本の整理をしなければならないと考えている。
パソコンは私にとってみれば必要なアイテムである。インターネットやメール、文書作成などほとんどPCでやっている、昔に勤めていたところでは、必要な書類(日報、支援計画、その他)はほとんどPCで書かなければならない、手書きなどは通用しなくなってきている時代である。京都の時には、自分の専用のPCを毎日持参して仕事をしていたので小さくて軽いPCでなければ、通勤が大変であったので、新しく小さなPCを購入したりもした。京都の職場にもPCは置いてあったが、それは仕事専用に使用していたので、休みの時間は自分のPCで個人的な用事を行っていました。その為、家には4台ものノートパソコンがある。子どもも使ったりしているので、自分専用のPCはパスワードを設定している。
11月の給与を引き出していなく、まだ妻に生活費を渡していない。妻は何も言わないが、心の中では早く出しなさいよと思っているに違いない。今日、引き出しに行くつもりである。
昨夜は、宗右衛門町の店からメールが入る。店の来て下さいという内容のメールである。貧乏サラリーマンが何回も行けるようなところではない。I氏と年内には一度は行く事になると思うが、一人では、行くのはためらってしまう。
公休日はこのようにして、家にいることが多くなってしまう。2台のPCに向い一台はブログを書いたり、もう一台は、メールの確認などに使用している。何とまぁ、単調な生活である。
次男が学校から帰宅した。今からピアノの練習に行くとのこと、それが終われば自動車教習所へ行くのだろうと思う。

障害者自立支援法の延命の法案

新聞報道から抜粋
今国会は12月3日で終了します。今、参議院では、障害者自立支援法の延命法案が、厚生労働委員会で採決が予定され、本会議で可決の動きがあり、障害者団体などが連日国会要請を行い、廃案に追い込もうと呼びかけています。自公政権時代に作られた障害者自立支援法は、「応益負担」を導入、批判を浴びました。民主党は、廃止を公約に掲げ政権の座に就き「障害者制度改革推進会議」で新しい法律を作る審議が行われています。今回の、法案は明記しておらず、自立支援法を「延命」するものとなっています。障害者団体からは「応益負担」の仕組みは変わっていないと指摘されています。
充分な審議も行われないまま、厚生労働委員会や本会議で可決されれば、民主党が言っていた自立支援法の廃止の公約は、嘘になります。新しい法律を作る作業をしながら「延命」につながる法律を作ることになれば、「応益負担」は残されたままになります。一度、自立支援法を一部改正し、今、推進会議で論議されている内容を新しい自立支援法のつなぎになるような法案なら納得はいきますが、「応益負担」、施設への日割り計算等々は残されたままの法案は矛盾も生じます。それらのことは何も手をつけずに可決されようとしています。

早くも師走

今年も、残り1ヶ月、1年は早いものです。私がK物センターに来たのは、昨年の10月13日で1年2ヶ月になります。仕事の流れも分かり、ちょっとは余裕がでてきたところです。1年があっという間に過ぎていく感じです。ブログにも書きましたが、子どもたちも独り立ちしていく中、夫婦2人の生活が来年から始まります。妻も変則勤務なので、休みが合う日は、あまりありませんが、まぁ、身体に気をつけながら夫婦仲良く生活を続ければと思っています。
来年はどんな年になるのか、予想はできませんが、来年も1年はあっという間に過ぎ去っていくでしょう。
仕事の関係で、来年はどこに行くのかは分かりませんが、いろいろな事業を展開すると言っていたので、ひょっとすると4月からは新しいところで仕事をすることになるかもしれません。まだ、分かりませんが?それとも、引き続きK物センターで仕事を続けるかも分かりません。万・万・万が一、新しいところにいってもR・レーブの人との交流は続けたいと考えています。Y氏やO氏との処季会や定例の飲み会など続けていきたいと思います。先日も、定例の飲み会、「くらわんか」で飲み会を行いました。仕事の話や雑多な話など時間を忘れ話をしました。今度は、忘年会を9日に行います。3名での忘年会ですが、予約も済み平八亭から確認の電話も入りました。16日は狸ばやしで飲み会を予定しています。師走になり、平月より飲む機会が増えるので、体調には気をつけながら楽しみたいと考えています。
年末、年始は、妙高高原へのスキーへ行きます。長男も一時金が出るとのことなので、一緒に行くことになります。3歳からスキーに連れて行き、今は、一人前(半人前)になり、年をとったなぁと実感します。子どもたちもこれから、結婚という時期を迎える時が、とうからず来ると思います。孫の顔を見ることもそう遠くではないと思います。

M会社の話

K物センターの休憩時間の時に、M会社の人と話をする機会がありました。失礼な質問ですいませんと、断りを入れて聞いてみました。冬のボーナスはあるのですかと聞きましたところ、そんなものあるわけないやろ、との返事。あるのは正職の人だけで、寸志も何もないと言っていました。此ではやるきもでませんわ、と実感を込めて言っていました。R・レーブは少ないながらも寸志程度のボーナスは出ますよと返事を返しました。寸志程度でもあるだけましやんか、何もないよりましやで、と言っていました。K物センターも赤字みたいで、1年や2年で赤字解消というとには、ならないみたいで、何十年間で原価償却をしていかないと黒字にはならないようなことも言っていました。M会社も厳しいみたいで、ひょっとするとM会社が撤退するかもしれないと言っていました。
ちなみに正職の人は、帽子のツバのところが黒の色の人が正職の人だと言うことも教えていただきました。それ以外は、パート、アルバイトの人だそうです。

次男の誕生会と就職祝いを開催する

昨夜は家族4人が揃い、レストランで誕生会と就職祝いを開きました。家族4名が顔を揃えるのは、以前に、光善寺のレストラン以来、久しぶりの出来事、アルバイト、仕事、等々でなかなか顔を揃えることがありませんでしたが、ワインを注文し、コースを決めるなど夕食を頂きました。
次男は、まだ就職をするという実感がわかないわ、と言ったりしていました。2年間程度は寮生活をする予定で、1週間に1回は家に帰ってくると言っていました。短大のクラス(30名)で内定をもらっているのは、9名程度とのこと、お父さん厳しいでと次男が言っていました。男では次男が一番最初に内定をもらったとのこと、他の人も懸命に就職先を見つける努力をしていると言っていましたが、厳しいようです。今は自動車教習所へ通い、車の免許の取得中、就職すれば車に乗る機会もあるので、取得中です。冗談で、親父の車をくれと言ったりしいますが、自分で働いて買えと言っています。
長男は、岡山の作業所へ行く気になっているみたいで、早速、その場から岡山の知人に連絡を入れる。今年度は、今の作業所との契約があるので、辞めることはできないみたいで、来年4月から、うまく行けば岡山の作業所で就職ができるかもしれません。一度、一緒に岡山に出向き、話をするようにしたいと思います。岡山と言っても車で2時間程度の距離、働いて自分で車を持つようになればいつでも、大阪に帰ってくることはできる距離なので、休みの日には帰ってくればいいと思っています。男はいつかは家から出て自立しないといけないと思うので、本人は不安もあると思うが、頑張って作業所の後継者として奮闘してほしいと願うばかりです。妻も岡山行きは賛成のようです。親戚もいるので、休みが連休の時には、長男を訪ねたり親戚の家に行ったりするかもしれません。
此で、我が家は福祉の仕事に就く人ばかりになりました。いいのか悪いのか分かりませんが、人間相手の仕事は、苦労もあるがやりがいもある仕事だと思います。

2010年11月28日日曜日

Sホーム時代の炊き出し

MIXIのHPに掲載した、Sホーム時代の炊き出しの状況を掲載します。

第2土曜日は、炊き出しや衣服の無料配布を行っています。今月も7/11に行いました。メニューは定番の豚汁とご飯です。


参加者は約80以上の方が参加していますが、来る人は同じ人が多く。たまに知らない人が来る程度です。豚汁だけ食べて、ご飯は持って帰る人が多く。夜のご飯に回すのではないかと思います。

ホームレスになった理由はいろいろで、派遣切りや借金から逃れる為、仕事がなく、アパートを追い出されホームレス生活を余儀なくされている人など、さまざまです。

時には、弁護士さんにも来ていただき借金についての相談や生活相談などもしています。借金の場合は、自己破産をすれば片はつきますが、自己破産せずに逃げ回っている人も多いと思います。

私の施設にもサラ金からの借金の督促状が何通も届きますが、宛名の人は今は、施設を出て就職をしたけれども、借金取りが来て職場にいられなくなり、行方不明になったりしています。

現実は厳しい世の中です。皆さんサラ金には絶対に手を出さないようにして下さい。

第二土曜日は、Sホームのホームレスさん向けの炊き出しをしていました。衣類や昼食の提供など時には生活相談や法律相談なども行いました。参加者の顔は明るく、本当にホームレスと思える人もいたり、また、同じようなSホームを運営している人たちが、参加者に声をかけたりしていたりしていました。多分、そこのホームに来てほしいから、来ているのだと思います。今でも続いていると思います。今は土曜日が仕事なので参加することはできませんが、また、機会があればのぞきたいと考えています。

11月最後の日曜日

今日は、子どもも家にいて妻は夜勤明けで一眠りしています。昨夜は、仕事が終わり利用者の送迎が終わったのが、18時45分腹が減ってきて、いつものうまかっぺ大将へビールと焼きそば、他のあてを口にしながら、腹を満たしました。家の近くなので、帰る事を気にすることなく飲むのは気が緩みます。ついつい飲み過ぎてしまうからです。余り飲み過ぎないようにと考えながら飲んで家に帰りました。

家では年賀状の文面の訂正。どうもうまい言葉が思い浮かばず文面とにらめっこしながら、悪い頭を駆使しながら適当の言葉に訂正しました。

テレビでは日韓合同演習のニュースが流れています。北朝鮮が挑発的な行為をするのではないかと懸念されていますが、国民がまともに飯も食えない国が、戦争なんかできるわけがありません。中国が背景にいるので、強気に出ているだけで、ただそれだけだと思います。でも何をするのか分からない国なので注意は必要かなと思ってしまう。戦争だけは避けなければなりません。でも攻められれば反撃するでしょうから。全面戦争になる可能性は、0%でないことも事実です。
私も韓国に行った時、北朝鮮との国境のところまで、足を運びました。北の方の山ははげ山で、燃料がないので木を伐採しそれを燃料にしているようです。イムジン河を渡り南に亡命する人もいて、その人たちは容赦なく、射殺されるそうです。引き潮の時には歩いて渡れるところがあるそうです。
今は多分立ち入り禁止になっているのではないかと思います。

2010年11月26日金曜日

年賀状の作成、一時金支給月

今年も年賀状を文面を考える時期になってきた。毎年、今年一年の家族の事をコラムにして書いている。年賀をもらった人から、感心されている。田舎の鹿児島の親戚にも送っている、そのおじさんが年賀状でいろいろ教えていただきありがとうと書いてあった。今年は何を書くか、枠は決まっているので、4人+犬2匹の今年一年の特徴を書くことになるが、自分のことは書きやすいが、妻や子どものことは、なかなか客観的に書くのは難しい。それでも、続けているので家族の事を書くことにする。年賀状の文面もようやく書き終わりました。やれやれ、後は印刷をするだけになりました。
12月は一時金(ボーナス)の支給月である。特にほしいものはない、PCを新型に変えようと考えたりもしているが、XPはまだ使えるので、ここは我慢のするしかない。スキーに行くのでその費用はいるが、それ以外は特に使い道はない。半分は妻に渡さないと、機嫌が悪くなるので渡すことになるが、残りは私の懐に入る。一時金があるのとないのとでは、生活の質が違う。以前は子どもたちの学費に消えていたが、それがないので少しはゆとりができる。その分、飲み代に使う金額が増えるのが現実である。
家族と忘年会をやろうかと考えている。就職祝いと20歳の祝いもかねての忘年会。
来年の子どもの抱負を聞きたいと思うが、正直には話をしてくれないだろう。親が一方的に考えを押しつけてしまわないように気をつけないといけない。
京橋あたりでやることになると思うが、子どもも酒も飲める年になったので、土曜日の夜に計画をしてみることにする。

今日はのんびりと起きてしまう

今日は、いつもより、遅くに起きてしまった。時計を見れば午後1時、腹は減るので、鰻丼と卵焼きを作り、とりあえず腹に入れる。休みの日はゆっくり寝ることが多くなった。仕事の疲れとお酒を飲んでいるので、休みの日はいつもこんな事が続いている。
昨夜は、Y氏と飲み会、店は「狸ばやし」魚も肉もうまい店である。木曜日は、余程のことがない限り、飲み会を行っている。話は仕事の話が多くなる。来月は3人で忘年会、京橋の平八亭でふぐの鍋で、一年の慰労を行う。皆さん60代、70代の人ばかりで、良く働く人ばかりである。O氏などは、重たい通称「オレンジ」を一度に2ケースも運ぶ、私も運んだことはあるが腰と膝がガクガクになる。それでも、足の筋肉をつけるために頑張っている。余り無理をしてほしくないと思う。以前は、自営業をされていて、縫製関係の仕事は中国などの安い国で作るようになると、仕事は減るは、連帯保証人になっていたために、借金が1000万円も背負わせられてしまう、その借金を返すために苦労をされた苦労人である。
私もその年になってそのようなことができるかどうか、自信がない。年金をもらうまでは、どちらにしても働かなければならない。支給開始年齢は62歳からである。あと9年間、元気で働ければ言うことはないが、そんなことを考える年齢になったのかと情けなくなる。まぁ、仕事があるうちは、健康のため、収入も得なければならないので、ぼちぼちと仕事をするしかない。貧乏人は死ぬまでは、働く運命か。
Y氏の息子さんも仕事を続いているとのこと、親としてみれば、少しは安心ではないかと思う。私の長男も非常勤として作業所で働いてはいるが、いつまでも今の状態ではいけないと、親として思ってしまう。本人はそんな親の思いは、届いていないかマイペースで仕事をしている。まぁ、プータローしているよりはましかと考えてしまうが、正職の仕事について思うのは親として当たり前のことだと思う。

障害者自立支援法

自立支援法「延命」許さない 障害者団体が集会を開く

障害者自立支援法に関する新聞報道
「障害者自立支援法を廃案に!」「私たちは新法を作るぞ!」。3つの障害者団体でつくる10・29全国大フォーラム実行委員会は、25日障害者自立支援法「延命」法案を廃案に追い込もうと、院内集会を開催される。
10・29全国大フォーラムの太田事務局長は、同日予定されていた参院厚生労働委員会が開催されなくなったことにふれ、「運動があったからこその結果です。制度改革を進めるために決してあきらめず、廃案に追い込むまで運動を続けよう」と呼びかけました。全視協の山城総務局長は、同法案は「同行援護」が盛り込まれ、視覚障害者の移動支援の点では前進するけど、応益負担の枠組みなど「悪法」の根本をたださない限り賛成できないと批判しました。HANDS世田谷の八柳さんは「仲間の多くの収入が僅かで、利用料が取られないけれど、法案には『応益負担』の仕組みが残っている」と指摘。「廃案にして、すべての障害者が地域自分の望む生活を送れるようにしたい」と決意を述べました。障害者自立支援法違憲訴訟の元原告、秋保さんは広島県から車いすで参加「今の政治は国民の事を考えていない」と訴えました。

参院での審議は、とりあえず開催されませんでしたけれど、自立支援法が「延命」される可能性は残されています。民主党は、障害者自立支援法は廃止し、新たな新法を作ると約束しています。全国で訴訟されていた違憲訴訟は和解し、障害者を含む人たちで新法を検討中である。障害者の人たちが、人として生きていける法律の早期成立を運動で作り上げる必要があります。

今年も残り1ヶ月

1年が矢のように過ぎていきます。今年も残り1ヶ月余り、来年はどんな年になるのか、分かりませんが、私が54歳になることだけは紛れもない事実である。振り返るとあっという間に時間が過ぎてしまったように思う。10代の時は、時間が長く感じられた。20代の時は、恋愛、失恋、仕事、諸活動に明けくれた。一番の思いでは、N訓練所への出向に行ったことである。その時は、結婚もし、子どもも生まれ何かと忙しい時間を過ごした。4年間で認可施設の見通しがつき、私の任務も終わりに近づいた。H先生がS作業所からT学園へ栄転され、N学園の担当もY氏がなることになる。私も出向を終わり、S作業所へ帰ることになる。何度かN学園へ残るように慰留されたが、自分の気持ちは変わらない。少し頑固なところが私にはあるようである。残っていれば管理職になる道が開けることになるが、そんな肩書きより自分の気持ちに正直に生きたいという思いが強かった。
私の友人であるI氏にもその話をしたことがある、大久保は変わり者だからといつも言われる。
Z法人に25年間(無認可作業所1年を含めれば26年)は、施設長によって作業所の運営が大きく左右される。H先生が施設長の時は、仕事も充実しやる気もあったが、H施設長が栄転や退職され、次に来た施設長は、「カス」ばかりの人である。いつも、法人本部の顔色ばかり気にしながら仕事をしている。サラリーマン的な施設長である。

2010年11月23日火曜日

長男と飲み会

妻も旅行で、私と長男の2名なので近所の居酒屋で夕食を食べました。特に話すことはないのですが、やはり仕事の話の主になってしまいます。今後、どうするのか、自分のやりたい仕事は何なのかと聞いても、分らんと言うばかりです。岡山の話をすると別に行ってもいいという返事、自分に合わなければ返ってきたらいいことだし、まぁ、どうするかは本人が最終的には決めることなので、あまりごたごたと言わないようにしようと考えています。

2010年11月21日日曜日

障害者自立支援法が改正される(きょうされんHPより)

障害者自立支援法違憲訴訟団の会見


 11月17日午前にも衆議院厚生労働委員会において、質疑もなく障害者自立支援法「改正」法案が可決される見通しと報道されています。

 裁判所で確認された基本合意により、平成25年8月には障害者自立支援法は廃止され、総合福祉法=新法が施行されることが決定しています。

 平成24年2月頃には廃止法案と総合福祉法が可決、制定される予定です。

 ところが、上記「改正法」の施行は、障害の範囲の点を除けば、概ね平成24年7月か4月頃に施行されるものです。廃案になった旧法の終末期1年半のうち後半の約1年間だけに、旧法の制度「改正」を実施するわけです。

 総合福祉法が制定され、新法移行に全力を尽くすべき時期に、廃案された法の「改正」を行うことは、新法移行に混乱を招くだけです。

 6月7日に総合福祉部会から提起された「当面の緊急課題」は対応されるべきですが、それは法改正をしなくても実現できるはずです。

 利用者負担についても、この「改正」案は、現状の現行法4段階負担を応能と言い換えるだけで、応益負担を廃止するものではありません。

 これらの不可解な動きに抗議声明を発表します。



障害者自立支援法訴訟の基本合意の完全実現をめざす会

障害者自立支援法訴訟全国弁護団

弁護団事務局

℡03(5297)6101

犬の散歩でT緑地へ

久しぶりに犬の散歩のためにT緑地公園へ、家族連れや犬の散歩に来ている人などたくさんの人が公園に来ています。こちらは、いつものコースを歩いて散歩は終わり、人が少なければもう少しいるのですが、こう人が多いと早く帰りたくなります。犬の方はまだ居たいようですが、無理に連れて帰りました。
近くに広い公園があるので、環境的には恵まれていると思いますが、休みの日は人が多いので行くのも嫌になります。金曜日は、平日なので比較的人が少なく、長時間いることもあります。
バーベキュー広場(11月~3月までは休園)もあります。炭焼きのテーブルは無料です。年に何回かは利用させていただいています。たまに外で食べるのもいいものです。電気式のテーブルは2時間2000円かかります。炭で焼く方がおいしいと感じます。

昨夜は、I氏と他の人たちと交流会

昨日は、送迎を終え京橋にて、I氏と他の人を交えての交流会を行いました。介護に関する人たちが集まり日頃の介護の話に花が咲きました。私の両親はすでに亡くなっているので、介護についての苦労はあまりしませんでしたが、今、介護をしている人たちは、心身とも疲れているそうである。
妻は岡山へ職員旅行に出かけています。牛窓というところに出かけています。子どもたちもアルバイトや友達の家に行ったりしていて、今は私一人でPCに向かってブログを書いている。

K物センターの送迎をしている、O賀さんが身内に不幸があり、月、火と送迎ができないという連絡が入ったそうである。Tさんと私で交代で送迎することになる。ただ、私は23日は昼間に用事を入れているので、夕方のみの送迎になる。月はTさんが送迎をし、火曜日の朝はTさんが送迎をする。夕方は私が送迎することになる。Tさんには無理なお願いばかりしています。

O賀さんが車の中で、私の妻の事に関して良くしゃべる人だと言っていた、O賀さんと妻は面識もなければ会ったこともないのによく、そんな話をするものだと思ってしまう。また、ガソリンを入れていない場合もよく文句を言っているとO井さんが話してくれる。運転も雑で急ブレーキをよくするそうで怖くて乗っていられないとO井さんがまた、話をしてくれる。利用者がうるさいとうるさいと文句も言ったりしているので、運転する人を変えてほしいとも言ったりしている。Tさんや私などは雑な運転をしないので安心して乗ってられると言ってくれる。
O賀さんよ土曜日も送迎しろよ!他の人のことも考えて仕事をしてほしいと思います。

2010年11月19日金曜日

季節性インフルエンザにかかる

11月13日(土)に仕事が終わり、帰りのバスの中で急に悪寒が走りました。(昼間は特に何の症状もなかったのですが。)電車の中でも、悪寒が激しくなり風邪かなぁと思いましたが、急に熱が出たので、ただの風邪ではないなぁと感じました。家に帰り検温すると、なんと39.4℃の熱があり、頓服2錠を服用し、そのまま布団に潜り込みましたが、寒くて毛布を出し、寝ましたが。汗と夢にうなされてながら、睡眠しましたが、身体が宙に浮いた感じでした。朝、検温すると37.8℃まで下がっていたが、たぶん頓服が効いたのだと思います。とりあえず「おかゆ」をいただき、市販の風邪薬を服用し再び布団の中へ、夕方に検温するとまた、39℃まで熱が上がっていいました。身体はフラフラの状態で、月曜日には医者に行き診てもらう事にしました。病院に行き症状を報告し、季節性のインフルエンザだと診断され、栄養剤を打ってもらい、薬も頂、早速服用し布団に入りました。
本当に急に悪寒が走り、インフルエンザにかかった分けですが、どこで感染したかはわかりませんが、皆さんも気をつけて下さい。
香港では、毒性の強い鳥インフルエンザ(H5N1)に感染された方がいると報道されています。日本にも毒性の強い鳥インフルエンザが上陸するのは、時間の問題だと思います。予防接種をして、少しでも症状が軽くなるようにしなければなりません。

次男の内定書が施設より届きました。本人も喜んでいました。時期を見て、20歳と就職祝いをしなければなりません。

自立支援法、延命の動き

新聞報道によると。
自立支援法、延命の動き  政府が委員会審議抜き採決を狙う(抜粋)
政府・民主党内で、障害者自立支援法の「延命」につながる法案が17日、衆院厚生労働委員会で、審議抜きで採決さえる動きが出ています。
同法案は、前回の通常国会に提出され、衆議院では、民主、自民、公明などの各党の賛成で可決障害者らの批判の声の高まりの中、参議院でも可決されましたが、本会議が開かれず閉会したため廃案となりました。
同法案を巡って、障害者や家族らから「あくまでも私たちは新法を願っている」と言った批判の声があがっています。
民主党は政権交代後、自立支援法の廃止を明言。現在、政府内に設置した障害者制度改革推進会議や総合福祉部会では、障害者や家族が参加し、廃止後の新法制定に向けて議論している。
障害者団体は10月29日「10・29全国大フォーラム」を開催。自立支援法が廃止され、当事者の声が十分反映された新法の実現と同時に「緊急課題」について、新法を待たずに予算措置の中で具体化すべき事などを確認しました。
民主党は、一度は廃止を明言しているにもかかわらず、障害者自立支援法の延命に動き出しています。公約の実現と新法の早期成立や今の現状を緊急に改善する、予算措置などを行うことが、今求められています。

2010年11月12日金曜日

Iさんの入所記録

Sホームに入寮された人の経過記録です。Iさんは知的障害であることが分かり、最終的にはグループホームに入所されました。プライバシー保護のため名前はローマ字で書いています。

09年2/10、入所面接に来る。
▼2/27日にセルスの会社に面接に行かれる。
▼Sバンクより携帯電話の請求書が送られてくる。金額は28万円ほど。携帯を借りるとき友人も含めて3台契約したとのこと。今は回線は切られているが、昔使った分が請求として送られて来ている。
▼28日に会社の面接に行かれる。
▼昨夜はN村さんの相談会に来ていただく、、医者に職務経歴書を提出する。Tの生活相談所にも相談をする。
▼K病院は当面は診察を受ける。精神的に追い込まれ自殺も考えたことがあり、リストカット2回もしている。居宅や仕事についてはやる気がない。年の割には苦労をしている。交通刑務所や刑務所にも入る。神経質で根はまじめ過ぎる方である。花粉症で医者にかかっている重症の花粉症である。一年中花粉症に悩まされている。携帯の料金の滞納もある。ヘルニアと心療内科、言語障害もあり体を治すことが先決な事柄と思われる。居宅への希望は強く持っている。心療内科で医者の診断書をいただけるようにする。
▼J支援センターで自転車屋のアルバイトへ行ったこともあるが、そこの店主と喧嘩をし首になる。交通事故だけで16回起こしている。
▼ホームレスの時はアルミ缶ひらいをして生計を立てていた。精神科の意見書を書いてもらうようにする。アレルギーについても一度検査をしてもらうようにする。N野さんと相談をして、一度心療内科に行き医者に助言をしていただけるようにしてもらう。
▼K病院へ3/13日に診察に行く予定であったが、安定剤を8錠服用しフラフラな状態になる。K病院は再度予約を入れる。
▼K病院に診察に行く。診察の結果、MRIの写真は特に問題はなく、知的判定の結果、中・軽度の知的障害であるといわれる。一般就労は難しい。医者の意見書を書いてもらう事は可能。4/3日脳波の検査の予約をして帰る。眠剤を頂く。(N野、大久保、Iさん)
▼N区のCWさんに連絡を入れる。知的障害である旨伝える。生活保護から障害のCWさんに引き継いでもらうよう手配するようにする。4/3日にK病院の精神科を受診し、医者の意見書を書いてもらい、療育手帳の申請をするようにする。Kされん京都支部にも連絡を入れる。グループホームのようなところで生活が可能ならCWさんとも相談しなが進める。
N区の役所に行く。Iさんの診断書を提示する。CWさんは発達障害かと思っていたようである。療育手帳の申請をするが、住民票があるところでないといけないので、K区からM区に住民票を移動する。
▼今後の進路について、N野さんと話をする。療育手帳の申請、住居等について、出来ればグループホームで生活するように進める。金銭管理が出来ないようである。
▼M区の役所に行かれる。発達判定の書類を出しに行く。2ヶ月ほど先になるとの事。療育手帳の申請もその後になる。判定時は職員も同伴する。
▼K病院に通院する。午後1時半予約。
▼M区の障害福祉から発達判定の日程の連絡があり、5/29日(金)午後1時半か6/5(金)午前9時のどちらかになる。O市いるお姉さんの都合に合わせて日程を決める。お姉さんに発達判定に付き添ってもらう。半日程度はかかる。
▼M区のO松さんより電話があり、Iさんの発達判定日は5/29日午後1時より行う。お姉さんが付き添ってくれる事になる。発達相談所にて。
▼K市の発達相談所に行く。午後1時より、実姉が同伴してくれる。
▼お姉さんより電話が入り、6月3日の水曜日にSホームに来所されることになる。
▼療育手帳が交付される。
▼明日、お姉さんが来て今後について話をする。
▼6/4日お姉さんが午後2時に来所される。今後について話し合いをし、グループホーム的なところで生活をした方がいいのではないかと話をする。お姉さんの了解を頂く。
▼6/7日、兄姉で両親の墓参りに行かれる。お兄さんも一緒に行かれる。
その後は、グループホームに入所されました。私がSホームを辞めてからも携帯に電話があり、私のことを吉田松陰みたいな人やと言ってくれました。また、携帯に元気にやっているという電話が入るかもしれません。元気でグループホームでの生活をやっていることを祈るばかりです。

Sホーム時代の思い出

今から約3年前、k市のN村さんの紹介でSホームに就職しました。Z法人を辞めてハローワーク通いをしていた時、声がかかりSホームの寮長として行くことになりました。
Sホームは定員12名ですべての方が、ホームレスの人たちでアルミ缶を集めて生計を立てていた人ばかりです。ホームレスの人たちが市役所に行き、救済をお願いすると、K市は一時保護施設へ入所させ、就職の斡旋や治療などを施し、そこから自立していく人もいますが、ほとんどの人たちはSホームへ来ることになります。私が在籍していた時、部屋が空くことは一度もありませんでした。中にはK市の旅館で働いていて、同僚の給与をねこばばし、そのまま旅館を飛び出しホームレスになった人もいたり、暴力団の人もいました。全身入れ墨をいれ夏場でも長袖を着ていました。
就職した年末には、定員を12から15名に引き上げ、多くの人を受けられるようにしましたが、すぐに部屋は定員一杯になりました。年末にはK市の河川敷の橋の下でホームレス生活をしている人の訪問活動や石鹸、ホカロン、お餅などを配って歩いたりもしました。
K市の各区役所からの問い合わせは、毎日ありいつ部屋が空くかという問い合わせで、今のところ部屋が空くことはありませんという返事をしていました。
このSホームの費用は、入寮者の人たちが受給している、生活保護費から必要な費用をいただくのですが、11.5万円もの費用がかかります。保護費は12.5万円なので、ほとんどがSホームの利用料に消えてなくなります。たばこ代に消えてなくなる程度しか所持金はないことになります。
3食は保障されているのですが、たまには違うものを食べたいと思うのは、当たり前のことですが、それを買うことも困難な状況も生まれます。
保護費をいただきに区役所に行くと、本人が受け取ることになるのですが、頂いたその場で、私たちの目を盗みそのまま逃亡してしまう人もいました。その時だけは、唖然としてしまいました。
中には、真面目にハローワーク通いをされ、警備会社やバス会社の清掃の仕事に就かれたりと努力をしている人もいました。
入所者の中には、知的障害者、統合失調症、人格障害などの人たちの入所が増えてきては、病院の手配や付き添ったりしたものです。
Sホームには10ヶ月ほど在籍しました。そこを辞める理由の一つは貧困ビジネスがマスコミで報道され、私も自分のやっている仕事が貧困ビジネスではないかと思うようになり、何度か悩んだり、N村さんとも相談したりしたりしましたが、結果的には辞めることを選択してしまいました。
今は、Sホームのはどうなっているのかは知りませんが、きっと満室の状態が続いているのではないかと思います。

S施設へ入寮された方の手記-2

私がk市にあるSホームの施設長をしていた時に、入寮された方の手記の№2です。

電灯の明るさに気持ちも晴れやか、初めて眠る布団の暖かさ、我に返り、昔の我が家の家族の顔を思い出した。約3年前に、家庭は「崩壊」してしまった。悔しさと子どもにかけた、すまない気持ちとで「涙」が出てきた。
 自分の起こした苦しさと、どうにもならない現状を情けなく思う。福祉の職員の方の力を頂きありがたく感謝の心で一杯です。
今日は、朝からSホームの近所のJリハビリテーション病院に、3年ぶりの診察で、病院でレントゲン、視力、尿など、少し不安もあったが、今のところ体の異常はなく、お尻に「出来物」が2つあるぐらいで、生活する上では心配いらない。
両親から頂いた体、61歳まで健康体で過ごさせていただいている事に深く感謝しています。明日は、H山に出向いてお墓参りをさせていただきます。(O谷祖廟分骨で永代供養)
大谷祖廟、両親の眠るお墓が設置してある。H山、Y神社へ、高台まで静かな山の高台である。「永代供養」をさせていただいているので、現在はE前市Y養寺の団家である。お墓の前で線香をさせていただき、手を合わせると両親の顔を思い出して涙が出てきた。今、我が家の家庭愛を無くした辛さと、子どもにすまない気持ちで一杯で情けない自分を感じました。
帰りに坂本龍馬、中岡慎太郎氏などの銅像を観て、彼等は「日本の近代化」の誓いを立てていたに違いない晴れ姿に見えた。
私自身も年齢61歳、日々、自分を生かして人生を過ごしたい。自分の前には日々変わりゆく時が流れている。
今日も心華寺、研修道場長時代の著者「自分を生かさないで、何の人生か」を開いて読書させていただきました。今日も一日感謝の気持ちをわすれずに、ありがとうございました。
朝、5時40分に目が覚めた。子どもの姿が脳裏をよぎる。父親らしい事を何もしてやれなかった、自分を「顧みる」姿勢がまだ自分の心のあらわれる、自分の過去が空しく思う。ぼんやりと机の壁の正面を見て、何も感じない無然な1日だったのかな。自分が愚か者かもしれない、駄目な親父である・・・情けないなぁ。
3年ぶりにホームから近鉄電車でK市駅まで車窓から「眺める」というより、いろいろ人間模様。社会の中で行動しているんだと、私もN本願寺に手を合わせ、心の安らぎを求める。人生とは何の為に生きていくのか、目標をしっかりと持って、自分の価値観で生き抜く事を学ぶ次第である。
朝からJリハビリテーション病院へ、9時過ぎに到着。十人十色というけれど、患者の8割は年配の方に見えた。人間年を取ると動作も緩慢になり、鈍くなるものである。介護を必要とする人や、車いすの方など病気になると覇気が無くなり弱々しいものだ。
待合室のテレビに国会審議が放映されていた。呼び出しの間、テレビを観ていると、不景気で派遣切りの労働者、生活資金等々、内閣総理大臣の支持率まで落ち込んでいる。近況、暗いトンネルから少しずつ明かりが見えそうな春であって欲しいものだ。病院の職員、看護士、ウイルスに負けないように対応を取っている状態。一寸先は闇、我が身の体も支持率ゼロにならないように頑張りたいものだ。
午後から散髪後、面接に。外部からの社会奉仕に活動してくれる人が訪問してくれました。散髪のハサミを入れてもらった時、少しは社会人になれるかなと、喜び半分、今まで自己流でやっていた(約3年間)から、散った髪も、白髪交じりで、これからは白でいい黒にはなりたくない、平凡な道を歩けるように進みたいものだ。
ケースワーカーの面接や女性の相談員の人も初めてで、色々な分野で活動している姿に「娘」の思いが重なり感無量でした。
早朝からN本願寺に参りに行き、足を運ぶ事3時間余り。色々な景色、人の姿、バス、電車、バイク、自転車、その他目に映ったものが思い出される。境内のお堂の中の何体もの仏様の顔が怒って指図しているように見えました。昼からは区役所に寄って返ってきたが、今日は一日平凡な日であった。
新聞を読んで、東京、横浜等では、憲法反対のでも、片方は賛成のデモと。私ながら感じ入るところは、昭和18年~21年ぐらいが戦争という、血肉の果てに領土の奪い合い、化学兵器と称して、原爆投下と人間魚雷から原子力(核兵器)と。
江戸末期から幕末からは、想像も出来ない、スピードの近代化政策であった。戦後の日本の高度経済成長である。今日の源も、戦争に召集礼状で呼び出された、十代の若者達、日本の国を守るために勇敢に、国を思えばこそ、無惨な死に至る。血肉分けたる写真など無くなって欲しい。今の日本の姿も、例えば、沖縄を出発して北海道宗谷岬までの航海に出た。海に漂う波間に浮き沈みして、目的地の設定もないまま、航海している姿に見えた。
麻生内閣の支持率も最低に、日本の国は行くすえ定かでない、定額給付金、暗闇の航路先は濃霧警報中の突進で不安定な船である。
ある著者の豊田佐吉(トヨタ自動車創始者)の「自分のやった事は、まだやる事の1/100に過ぎない」と思ったそうだが、今は派遣切り、労働者(非・正)勤労者までもが、不安の世の中に生活安定を求めている。
アメリカの成功者、トム・モナハン(ピザショップ)は言っています。DO.IT.NOW(今すぐにやれ)。
麻生日本丸も波間に傾き掛けた船を、何とか正常に戻そうと踏ん張っているが、その足を引っ張る大臣が存在する。日本の大臣たる者、公務で海外に行き、二日酔いで日本の恥をさらすようでは、大臣の資格はないといわなければならないだろう。
日本経済のこの不景気の最中に大臣を兼任するような政治状況では、まだまだ暗くトンネルの中を入ったまま、明かりが見えてこない。国民も黙ってていいのか、呆れてみているだけでは駄目である。何事に於いても、国民の願いであればその方向に政治の舵を切り替えなければならないのだが、早く解散総選挙を行い国民の真を問わなければ混迷の日本国になりかねない。政権が変われば文殊の知恵が浮かぶかもしれない。
国民も頑張る、国も頑張る、日本の不景気から明かりが一日も早く訪れる事を願わずにいられない。
読書に時間を使った。朝の日課にしている3時間のジョギング、T寺~N本願寺の往復と、今日は日祭日明けで、マスク姿、通勤者またはバスから降りる人もマスク姿で鞄を持参している、いつもの光景である。交通網も車、バス、自転車、バイク、タクシー等々みんな目的地である職場について仕事に頑張る事であろう。
何事も行動するにも体力、健康が一番、今日を生かされている事に感謝せねばならない。また家の事を願って両手を合わせ帰り道。
ハローワークに仕事の検索に行きました。61歳の年齢と仕事を探しに、パソコンサイトを見ましたが、面接までには至りませんでした。自立の姿がそこに見えたけれども、今後に生かし、掲示板の張り紙なども見て来ました。昔は職業安定所、今はハローワークと年寄りには何の事かさっぱり分かりません。状況も未だ「春眠暁を覚えず」不景気で、混迷する世界経済の中、耐えて耐えて我慢の日々です。
今日初めて高齢者会館へ、、炊きだし実施されるとのことで、初参加させていただきました。京都市のこの場所で集まって、来た人達のほとんどがホームレスで生活したり、車の中で、路上で生活したりと、中には別の人もいるかもしれませんが。
健康で、貧しくても、リサイクル(空き缶、金属等々)で生活し、雨風をしのいでいる者にとって、心の支えになりました。衣類などの提供もいただき感謝の念に耐えません。出来るだけ早く自立できるように自分を戒める。自分の心の向上を図って、日々の不満、若しくは愚痴、社会に対する敵対感を捨て、自分は何が出来るのか考えさせられた一日でした。感謝、感謝です。
朝の読売新聞を読んで、アメリカのヒラリー国務長官が就任後、最初に日本を訪問されるとありました。今、自動車産業は不況の大波をかぶり全世界を巻き込んでいます。それに輪を掛けるように派遣者社員のリストラ、契約打ち切りと、とどまるところではありません。今だ日本の景気の上昇は目に見えず、起爆剤としての給付金もどのような経済効果があるか、疑問視される識者もいるとお聞きしています。
昼過ぎに、読売新聞に出ていた学校歴史博物館に歩みを運びました。25年から50年の写真を見て、少年の頃を思い出しました。漫画雑誌では、冒険王、少年画報、女の子には「なかよし」など一冊。この本では赤同鈴の助、矢車剣、鉄人28号など、今覚えば、天才バカボンの赤塚不二夫さん、遠藤周作さん、横山光輝さんなど苦労して一流になった人ばかり、昔の職人気質そのものが生活する為にはそれぞれの道で成功された。
今思えば、田舎の豆電球の中で育った若者が志し果たして、いつか帰る、その夢は希望と青春の晴れ姿だったかもしれません。
学校運営そのもの自体、団塊の時代の我々も、もう61歳、「幾月は人を待たず過ぎたるわ、我に帰らん」。今書き記していると、昔の少年時代の恋愛は好きだけど言葉に言えず、手をつないで帰ろう者なら厳しく怒られた時代。今思えば卒業式の時くらいは、手を握って帰りたかった。
その時代の映画スターでは、大川橋蔵、中村金之助、千原しのぶ、日活では小林旭、石原裕次郎等々、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の御三家等。NHKのゼスチャー柳家金五郎、水ノ江滝子。朝日放送のてなもんや三度笠、白木みのる、藤田まことなどなど。白黒テレビ時代の、プロレスの力道山、相撲の栃錦、若乃花。プロ野球の長島、王、星野・・・等々の有名野球選手、巨人:南海、巨人:西鉄戦は忘れません。
この間も張本さんが新聞で言っていました。契約金を新聞紙に包んで兄と二人で列車に乗って帰ったと言いましたが、今の時代も何千万、何億とお金が動く時代、プロになった以上、格言通り、「虎は死しても、皮は残す」一世を風びするスターが、子ども達に夢を与える時代、石川遼、ゴルフのように十代でもやれる、彼の親は立派であると思う。この子ありて親思う。何事も目標が出来れば、それに向かって邁進する、挫折をしない、余分な事は考えない。
強い意志を持って頑張りたいものだ、20年から50年の歩み皆それぞれ、夢も希望も青春も辛酸な青春時代を思い出した一時でした。
夕方から、F見のハローワークに行く。ハローワークに取り付けてある閲覧求人募集は、年齢制限あるいは、通勤と住み込みパート、ガードマン、ホテル、病院等の掃除等、それぞれも数が少なく、時代の流れか若年層採用優先が多く。高齢者には辛い閲覧だった。

次男の就職が内定する、長男の状況

U学園の就職が内定しました。電話では、内定の連絡がありましたが、正式な内定の書類が送られてこないので、少し心配しましたが、理事会の承認もおり近々正式な書類が送られて来るとのこと、
U学園の施設長さんは次男の担任の教授の教え子だと言うことも分かり、不思議な巡り合わせだと思いました。ヤレヤレ…です。前にも書いたとおり、1~2年ぐらいは寮生活をするようです。大阪市内なので、休みの日には、帰ってくることもできるので、一人前になるように頑張ってほしいと思います。本人は20歳の祝いと就職祝いをしてくれと言ったりしていますが、いろいろな人がU学園の施設長さんに頼んだとも知らずに、困ったものですがこれは本人には内緒にしておかなければ、なりません。まぁ、20歳と就職祝いをしてあげることにします。
次男は、大阪市立大学医学部付属病院へ肩の脱臼の診察に出かけています。来年の2月には手術をしなければならないことになっています。8月に右肩を手術したのでその状態も確認するのではないかと思います。
長男の方も、岡山のK氏の紹介で、NPO法人格を取得している作業所の後継者として、来てくれないかという話があり、本人に話をする。詳しいことは、本人に直接問い合わせさせたり、現地に行き実際の作業所を見てくるように、言うつもりです。最終的には本人が決めることなので、それ以上は何も言うことはしません。断ることも、受けることも本人が決めることなので、無理に言っても長続きしなければ何もなりません。
岡山の仕事を断れば、社会福祉の学校に行ってほしいと思っています。年齢も21歳なので、2年間もう一度勉強して、社会福祉の仕事をしてほしいと考えています。介護福祉士を資格を取得するようにも言うつもりです。まだ、親は現役の仕事をしていることだし、奨学金も利用することもできるので、行ってほしいと思っています。就職先も学校の方で斡旋してくれるみたいです。夜はアルバイトでもして小遣い稼ぎをすればいいことだし、若いと言うことは、いろいろな可能性が実現できるので将来を見通してほしいと思います。
岡山ならバスや電車などを利用しても大阪まで2時間もあれば、帰阪することはできるので、そんなに遠いところではないと思います。岡山には妻の兄の子どもが岡山市役所に勤務しています。親戚もいるので、何かあれば相談する人もいるので、心強いと思うのですが。
2人の子どもがこの家からいなくなるとなれば、夫婦と犬2匹の生活になります。少し寂しい気もします。共働きなので、夫婦と言ってもすれ違いの生活になります。変則勤務なので仕方ないことですが。

2010年11月10日水曜日

月に一度の職員会議

今日は、私の所属する作業所の職員会議がありました。レジュメはいつも同じ項目のレジュメです。情勢の話はなし(そんな事はないだろう?)。世の中は激しく動いているのに、特に障害者関係は10/29集会があり、きょうされんの全国大会もあり、そこでの基調報告もあるので、障害者を取り巻く情勢はいくらでもあるのにと、心の中で叫びましたが、施設長の顔を潰すのもはばかるので、ここはじっと我慢の態度。
講師にDの里の施設長が来られていて、報告・連絡・相談についての話を約1時間程されました。会社なら当たり前の事が、施設では出来ていないようである。ある事業を請け負えば、上司と部下との報告・連絡・相談は当たり前の事で、そのやりとりを通して仕事がうまくいくのだが、それが出来ていないようである。
後は、安全確保についての話など、マニュアル通りの話をしていましたが、マニュアルみたいに事が進めば言う事はないのだが、マニアルにないことが起こればどうするのかは、経験と自己判断でするしかないのではないかと思う。別にマニュアル否定はしないが、マニュアルにないことが起これば対処のしようがない。そこが、問題である。想定外の事が起こる事は起こりうる事である。全てマニュアル通りには事は進まないと私は思っている。事実、阪神淡路大震災の場合は、大災害時の時のマニュアルはあっても、マニュアルどうりに人命を救う事は出来なかった。
K物センターの◯藤さんは11月20日をもって、戦力外通告になった。22日からは新たなメンバー3名がK物センターに実習として来られることが決まる。K物センターの事は、H先生の了解がなければ前に進まないようである。
ここの作業所は、女性が強く、男性はしょんぼりとしている。見ていて何かしら情けなくなってきてしまいました。男よ頑張って発言をして欲しいと思う。
施設長は私に対しては、言葉遣いが違う、すごく丁寧に聞いてくるので違和感を覚えてしまう。他の職員に対する言葉と、違う言葉遣いである。やはり、H先生の直轄で入ったためかと、ふと考えてしまう。

2010年11月9日火曜日

長男の就職について

先日の土曜日にお会いした。K氏に長男の就職の話をしたところ、岡山で無認可作業所の後継者として来てくれないかという電話がありました。初任給は短大卒か四大卒の初任給は出るという話でした。早速長男に話をすると、今年度は今の仕事があるので無理だが、新年度になれば…という返事でした。今日は、有給やボーナスが出れば行っても言いと言う事を言っていました。
K氏に詳しい事を聞いて息子に話をしてみたいと思います。

2010年11月7日日曜日

今日は一日家の中で

昨夜のレセプションで飲み過ぎたため、朝もゆっくり起き、朝食と昼食を兼ねた食事を頂きました。二日酔いは久しぶりです。レセプションではあまり食べる事も出来なく、ビールや焼酎を頂き、これでは二日酔いになるのは当たり前です。遅刻したので食べる時間がなく飲んでばかりではいけません。二次会も参加する。50名ぐらいの方が参加したのではないかと思います。そこでもビールを飲み、あて程度の物ばかりで、これではいけません。帰りは最終電車になりました。
I氏も幹事として忙しそうに動き回っていて、あまり話をする事も出来ませんでした。

福保労60周年に参加

昨夜は、福保労60周年レセプションに遅刻して参加しました。K物センターの仕事が18時25分まで残業になり、急いでバスと京阪と地下鉄に乗り継ぎ、大阪府社会福祉会館へ行きました。会場には入ったときはすでに、レセプションも後半になっていて、とりあえずビールを飲みのどを潤した。
会場には、H先生や岡山から来ているK氏など日頃お世話になっている人たちが参加していました。その他にも私が大阪市内支部のの副委員長をしていた時の、人たちも参加していて懐かしさを覚えました。
H先生とも話をし、私がいつまでK物センターにいるのかという話をしました。T郷も虐待問題でまだ、ゴタゴタしている時で年内には何とか片がつくのではないかと話をされていました。今はT郷の理事長に就任しているとのこと。前理事長が退任し、その後をH先生が理事長に就任したとのことである。
K物センターの方の体制も考えなければならないと言っていました。私は来年の3月末までは、行ってもらうことになるという事みたいです。
T郷のが落ち着けば、もう少し早くなるかもしれないとも言っておられました。N法人やK法人の方の合併や、K物センターの件も手を入れなければならないとも言っていました。
H先生も福保労(旧日社労組)の委員長をされていて、委員長のインタビューを冊子から抜粋させていただきます。
「私は、1977年に日社労組の委員長になる前に、総評全国一般大阪地連のオルグをしていました。この時、日社労組も担当しており、「鶴野闘争」も受け持ちました。
当時は、「社会福祉事業の職場に組合があるのはおかしい」という考えが強く、保育用具を要求したら「解雇」ということになり、法廷闘争に入りましたが、鶴野さんも病気になり、結審は「和解」となりました。
全国一般の専従を辞めた時は、S学園から要請の話があり、S作業所の責任者などをしていました。委員長になったのは、第二次黒田革新府政時代の頃で、公私間格差是正が大阪府・大阪市しで実現されて、全国的に革新自治体の作りの動きがあった頃です。組合の要求も前進をみせていました。
大阪支部としての闘いでは、大きなものとしてポニーランド保育園の闘いがありましたが、委員長としての行動は、日社職組の中央本部段階の行動が重きをしめていました。
社会事業のみではなく、保育も含めて組合を作ろうという時期で、東京、名古屋、京都と全国的に要求が高まっていました。大阪は両者が合体してできていましたが、全国的にはそうではなくこの運動のために、よく上京していました。
S学園で、都築常務理事の時、常務から話が出され2~3の運動に係わりました。
一つは、S愛育館の時で、働いている者を軸にした映画作りで、「明るい明日」の映画作りに係わりました。
二つ目は、S協との係わりで、今のP協です。昭和6年に出された「日本消費者連盟」の本の学習から始まり、S協と都島医療生協が合併しました。次にS市民生協、K市民生協、M市民生協が合併して、今のP協となったのです。
三つ目は、S学園の福祉まつりとの係わりで、大きなまつりを参考にして、福祉まつりに取り組みました。異なる職種の職員が、まつりを通じて団結すると言うことを目的におき、平和、福祉が共通している団体に呼びかけ、初めは少なかった参加者が、多い時は7000人から8000人まで伸びました。
最後に、今の福祉職場の現状をみると、構造改革の影響を受け、現代は社会福祉といえる基盤が弱くなっているのではないかと、制度が抜けて福祉が一人歩きをしているように感じます。もう一度、公的責任である福祉が見直されるべきではないかと思います。」というメッセイジを書いておられます。
岡山のK氏にもお会いし、ベトナムの話に花が咲きました。また、一緒に行こうと言うことも言っていただき、今度は、ハノイから電車でホーチミンに行くことを話をすると、それもいいなぁと言っていただきました。息子の就職の件も、お願いしM医連の事務局の職員の募集があれば、是非お願いしますと言っておきました。
今日は久しぶりに二日酔い気味です。

2010年11月5日金曜日

ぼちぼち、やろかの参加者

このブログを見てくれている人は、日本、アメリカ合衆国、オーストラリア、マレーシアという国からアクセスがあります。あまり変な事は書けないなぁと思ってしまいます。しかし、私の感じた事や思いは表現の自由がある限り、気ままに書いていきます。人の誹謗中傷はしませんが、問題の提起はしていくつもりです。沢山の人に読んでもらえるブログになればいいな~と思っていますが、なかなかそこまで行くには道のりは遠いです。メジャーなブログになると企業がCMを掲載して広告料がいただけるそうですが、そこまでは考えていませんが。そういう風になればいいなぁと少なからず思ったりしています。
この間、液晶テレビを2台もJTに注文してしまいました。妻がどうしても欲しいというので、妻のボーナス払いで買う事にしました。20万弱の金額になりますが、妻が払うのでいいかと人ごとのように注文してしまいました。
今日も一日PCの前でブログを書いてしまいました。尖閣諸島の衝突ビデオがYouTubeに流されました。ニュースでも取り上げられ、見た人も多いと思います。ビデオを見れば明らかに中国漁船が挑発的な行動が目につき意図的に海保庁の船にぶつかってきているのが分りました。本当にどうしようもない国ですね。YouTubeは中国でも流されているそうですが、NHKのニュースの取材で中国の国民は日本の船が挑発したと言う人や尖閣諸島は中国の領土で日本が領海を犯しているというインタビューがテレビで放送されているんを聴き、本当にどうしようもない国だと改めて強く思いました。言論の自由がない国では、政府の流す情報に左右されてしまうのかも知れません。一党独裁の国は本当に駄目ですね。あれだけの経済成長を続けている国なのに、民主主義の面では三流国並みです。ノーベル賞を中国の人が受賞したのも、中国政府はノルウェーの国を批判していますが、ノーベル賞を決めるのはノーベル委員会です。一党独裁を批判しただけで刑務所に入れられれば、そこの国の国民は、自由にものが言えない状況に置かれているのが異常ではないかいと思います。
日本は堂々と尖閣諸島は日本の固有の領土であると主張をしていかないと、中国になめられてしまいます。

10/29集会の開催

障害者自立支援法の廃止と新たな障害者総合福祉法の制定に向けた、集会が10月29日に日比谷公園で開催されました。私も前の職場ではきょうされん(旧全国共同作業所連絡会)の大阪市内ブロックのブロック長をやっていた関係で、何度か10/29集会へは参加してきました。今年も1万人を越える障害者・職員・家族・関係者が集い、障害者自立支援法の廃止を訴えた集会がもたれました。障害者自立支援法の早期の廃止と新法の成立を目指さなければなりません。

1万人超の障害関係者が自立支援法の廃止

新法づくりを確かなものに

今が大事な時期・・・幅広い運動と共同を大切に

◆日本障害者協議会などは10月29日、東京の日比谷公園で、障害者自立支援法の廃止と、同法に代わる「障害者総合福祉法」(仮称)などの新法制定を訴える「10.29全国大フォーラム」を開催した。会場には、全国から1万人を超える障害関係者が集まった。

◆集会への連帯あいさつで、湯浅誠氏が「この間の運動への深い敬意と立場を超えて結びついていこう」と述べた。
また、障がい者制度推進会議の担当室長(東俊裕氏)が「大きなうねりをつくりだしていくことが私たちの社会を変える大きな力になる」と激励のあいさつをした。
さらに、厚生労働省の岡本充功政務官があいさつ、2013年8月までの「障害者総合福祉法」(仮称)施行をめざすことが閣議決定されたことに触れ、「(障害関係者への)透明性と公平性のある安定した施策に向けて、一歩一歩だが確実に進めていく」と述べた。

◆民主党政策調査会「障がい者政策プロジェクトチーム」の谷博之座長は、障害者自立支援法で医療費の自己負担上限額が設定されている自立支援医療について、「非課税低所得者の無料化を求める声が届いている。来年度の予算獲得に努力したい」との意気込みを示した。このほか、社民党や共産党などの国会議員も参加し、障害者自立支援法の廃止を訴えた。

◆障害者基本法の改正案などについて議論している内閣府の「障がい者制度改革推進会議」の藤井克徳議長代理は、前通常国会で廃案になった障害者自立支援法の改正案に触れ、「今開かれている臨時国会で提出されないという話はない。提出されて成立すれば、障害者自立支援法の根を残す可能性もある」と懸念を示し、「今が大事な時期だ」と強調した。

 また、障害者の立場からは8団体が、それぞれの障害にかかわる問題を訴えた。その後、参加者は2組に分かれ、国会議事堂や東京駅周辺などを約1時間半かけてデモ行進した。
障害者自立支援法の廃止と新たな障害者総合福祉法の制定に向けた、取り組みの強化が求められるのではないかと思います。

(キャリアブレインより抜粋 )

昨夜はI氏と飲み会

昨夜はI氏より、飲み会の誘いのメールが入り、京橋にて飲み会をする。I氏は会議がないときは、必ずと言っていいほど、私と飲みに行く。私の相談相手にもなっているので、私にとっては欠かせない人である。また、いろいろな情報も提供してくれるので、ありがたい存在でもある。
I氏の母親は、94歳と高齢で、認知も進んでいる状態である。3年前に会ったときは、自力で歩き、三宮あたりで一緒に食事をとったりしたものであるが、今は車いす生活である。私の名前も覚えていないようで、通称、彦左衛門と言っている。I氏も母親の介護をしながら、仕事を続けているので大変であると本人も言っている。
明日は、福保労60周年レセプションが開催される。もちろん私も参加する。岡山からもK氏も参加するとのことなので、長男の就職の話をするつもりである。また、H先生も参加するので、私がいつまでK物センターで働くのか聞いてみるつもりである。K物センターに来るときの話では、1年か2年は行ってもらう予定であると言っていた。いつまでもK物センターで働かせるつもりはないとも言っていたので、この機会に聞いてみるつもりである。次は何をするのかも不明なので、それもついでに聞いてみるつもりである。
一緒に仕事をしている職員さんやパートの人たちとも親しくなり、飲みに行ったり、食事会もしたりしている。仮に、S協同就業支援センターを離れるとなると、少し寂しい気もします。
もう一人の職員さんも、ずっと一緒にやりましょうや、と言ったくれたりしている。法人も2つの法人から合併して、一法人になる予定だと聞いている、今後いろいろな事業を展開すると言っているので、私がそのお役に立てるかどうかはわかりませんが、無理を言って採用してくれたご恩には報いなければならないと思っている。I氏も来年4月には、定年退職なので彼も来てくれないかと、打診はしているがH先生の了解と財政的な面がクリアー出来ればほしい人材である。

2010年11月3日水曜日

今日も一日終わり

休みの日には、ブログを書くことが習慣になってきています。平日は飲みに行ったりしているので、ブログの更新がなかなか出来ない状況なので、休みの日に書くことになります。夕方は少し用事があり出かけましたが、帰宅してからブログを書いています。このブログは世界中の人が見ているようで、アメリカ、オーストラリア、日本と各国で読まれているみたいです。徒然に思いを書いているので、特にテーマを決めて書いているわけではないのですが、世界の人が見ていることに、インターネットが個人の思いを世界に発信する手軽なものだと改めて痛感しました。世界中の人が読んでもらえるようなブログを今後も書いていきたいと思います。(ブログの編集のところにどこの国の人が読んだかの統計が出ます。)

デジカメを持参し

私の鞄には、いつもデジカメを持参して仕事に行ったり、歩いたりしています。小さなデジカメなのでそれほど重くはないのですが、何かおもしろい物があればいつでもとれるようにしています。電池は単三2本が電源なので、なくなればいつでもコンビニで電池を買うことが出来るので、充電器を持参する必要もありません。しかし、今は充電式の電池を使用しているので、時々、電池の残量を確認しないと電池切れになっている場合があるので、確認をしています。
私が座っているPCの傍には犬のチワワ「ふく」、プードル「ひな」の2匹が傍にいます。特にプードルの「ひな」は遊んでほしいようで、背中を引きかくようにしてあいてにしてほしいとおねだりをしたりしています。物を投げればそれをくわえて帰ってきてはまた投げるといった具合に、それの繰り返しをしています。こちらは、パソコンを打ちたいのに、途中で手を休めぬいぐるみを投げて遊びあいてをしています。ちょっと疲れますが。「ふく」は6歳を越え落ち着いていますが、「ひな」のまだ2歳なので元気いっぱいです。上が「ふく」、下が「ひな」です。「ふく」はちょっとメタボ気味、で少し体重を減らさないと行けない状態です。「ひな」はやんちゃ盛りで特にシッポをいらわれるのが嫌で、逃げで行きます。
いつまでも元気に、私たちを癒してくれればと思います。

次男も今月で20歳に

我が家の次男も今月で20歳になります。年月のたつのが早いなぁ、と感じます。妻は、産休に入りすぐに破水をしてしまい、未熟児でこの世に誕生しました。ちょうど、N海学園へ出向中で妻が出産したと聞いて、ビックリし仕事も昼から帰らせていただき、そのまま病院へ向かいました。未熟児で生まれ、医者からは障害が残るかもしれませんと告げられたときは、目の前が真っ白になりまた。20年前は、未熟児医療センターは東成区にあり、仕事が終わると地下道を通り、ガラス越しに我が子を見るのが日課になっていました。保育器に入った他の乳児も見ながら、早く退院できる日を待ち望んだものです。ただ、障害がどの程度残るかは、わかりませんでしたが、網膜症か知的障害かと私の頭の中でいろいろと考えていました。私の仕事が知的障害者の人たちを相手にしているので、子どもが出来たときに、五体満足な子供が生まれてくれればいいと思うばかりで、まさか、自分の子どもがと因縁みたいなものを感じました。
3ヶ月ほど経過すると、体も大きくなりようやく母親の母乳を与えられるまでに成長し、二人で我が子を抱きかかえました。
退院することも出来、特に障害らしき兆候もなく、育ちましたが、やはり他の子どもと比べるとひとまわり小さい赤ちゃんでした。保育所にも入所し、初めての運動会では、その小ささが目につきましたが、ハイハイしながら元気に運動会に参加していました。
保育所の6年間の送迎は私の仕事、長男と次男を自転車と背中に背負い保育所通い、この6年間は本当に長く感じました。次男の方も特に障害らしき兆候なく、胸をなで下ろしたものす。産院の先生が生まれたときに産声を上げたので、なんとかなると言っていたのを思い出し、産声を上げたおかげで脳に酸素が行き脳に障害が残らなかったようである。
小学生の時は少年野球をやり休みの日には、観戦に行ったりして小学生時代を過ごし、中学生からはラグビー部に入り3年間やり通しました。高校はF工業高校へ入学し、そこでもラグビー部に入部し、花園に行くのが夢のようで毎日遅くまで練習に明け暮れていました。高校3年生になると、就職の話が担任の先生よりあり、本人は進学を希望していることを担任の先生に次げ、先生もビックリなさったようでした。H大阪短期大学の保育科に入学、苦手なピアノも知り合いの知人に教わりながら、何とかクリアーしたみたいです。今は、児童養護施設への就職も仮内定し、アルバイトに精を出しています。ただ、ラグビーの時に痛めた肩の手術があり、8月に右肩の手術を行い、来年の2月には、左肩の手術を行う予定です。タックルを繰り返すうちに、脱臼になり何かの拍子で肩が抜けてしまうので、抜けないように固定する手術を行うことになります。内視鏡でする手術なのであまり傷跡は残らない手術で、それが終われば、車の免許なども取りに行かなければなりません。4月からは社会人として、1年間は施設での寮生活をしなければなりません。児童養護施設は、本当にいろいろな子どもたちが、入寮してくるので一人前になるには、2から3年はかかるのではないかと思います。
これで親の責任は果たしたと思っています。長男の就職もありますが、まだ、21歳なのでチャンスはあると思うし、私もいろいろな繋がりを駆使して就職先を見つける努力はしていくつもりです。
後は夫婦でのんびりと犬の2匹とともに生活をすることになると思うと、少し寂しいような、気もしますが、いつまでも親の元で生活していては、自立できないことになるので早く正規職員での仕事を見つけて独り立ちをしてほしいと願っています。

今日は文化の日

11月3日は文化の日。今日は少し目に遅く起きました。それでも9時過ぎには目が覚め、朝食をいただきPCの前に座りブログを書くことにする。
このブログにも書きましたが、K物センターのZP作りは予想通り、1600箱を作るのはなかなか困難な状況です。時間を延長し、2回ほどZP作りを行いましたが、1300台強がやっとという状況です。
1回目の実績は1332箱×5.2円=6926円という結果になりました。反面、オリコン洗浄数は1400台強で、以前は、ZP作りをしていてもオリコンの洗浄台数は20台は洗浄できていたので、大幅な収入減になってしまいました。こんな、愚痴を書いても仕方がありませんが、現状報告をしておきます。

昨夜は、家の近くにあるうまかっぺ大将という、居酒屋に一人で行きました。店に入ったときは中年の女性ばかりで、何となく居心地は悪かったのですが、その後は男性客も来て、一人静かに、本を読みながら飲んでいました。どうも、酒を飲むと読みかけの本が読みたくなるようで、ちょうどカウンターの端に座り、あまり目立たないので、飲みながら読書をしていました。友人からは戦国ものの本を読めと言われ、今読んでいますが、最近は経済関係、農業関係、尖閣諸島問題での排他的経済水域の本や特にテーマは決めずに、気になる事があると本を参考に理解を深めています?。

中国の国は本当に嫌な国ですね。そんな国に行きたいとも思わないし、行くこともないと思います。
資源問題が絡んでくるので、余計に中国は強気に出ているようです。尖閣諸島周辺には、海底にイラクの原油の推定埋蔵量に匹敵する1000億バーレルほどの原油が眠っているとのこと、金額にすると700兆円規模の原油があると言われています。日本にとって資源のない国から、資源大国になる可能性を秘めたところだけに、日本の今後の外交姿勢が問われてくるのではないかと思います。

日本は領海と排他的経済水域の面積は世界で6番目の広さを持っている。それに、海の深さを足すと世界で4番目の広さと深さを有する体積と面積になります。海には水産資源や海底の底には石油、天然ガス、石炭、等々の資源が埋蔵されていたり、数多くの金属類も存在しています。マンガン、ニッケル、コバルト、銅や「コバルト・リッチ・クラスト」という鉄、マンガン、コバルトを含む固まりが海底に転がっています。さらに亜鉛、銀、銅などの金属類を大量に含んだ海底熱水鉱床なども存在が確認されているそうです。また、海水にはウランなども含まれていて、ウランの値段が上がれば採算がとれるのではないかとも言われています。
水深300㍍を超える海底には、メタンハイドレートと呼ばれる氷状になったメタンが層をなして分布しており、日本で消費する天然ガスの100年分に相当する量があり、それの採取実験が進行中である。
以上のように、日本の海は水産資源も豊かで海底には原油やレアメタル(希少金属)も確認されており、今後、その採取技術の開発と採掘を行うことで、日本は資源大国になる可能性を秘めた、海を有している。日本の技術を持ってすれば、解決するだろうと私は思っています。

2010年10月31日日曜日

ベトナムから一時帰国中のS氏より御礼の電話

今、日本に一時帰国しているS氏から御礼の電話が入りました。日本での用事も終わり11/2日にはベトナムに帰国されます。日本のおみあげに日本製のPCを購入され、日本橋までご一緒させていただき、品選びを一緒にさせていただきました。新品は高いので、中古のPCを置いている店を紹介して欲しいとの事なので、SマップへいきXPVer.のノートパソコンを3.5万円で購入されました。結構安いものがあり喜んでおられました。ベトナムでも日本製のノートパソコンが流行しているみたいで、中国製は安いが品質が悪いのであまり人気がないそうです。その為、日本製のPC(特にノートパソコン)は人気があるという話でした。ノートパソコンは仕事で使用するみたいでデスクトップのPCはあるそうですが、持ち運びが便利なノートパソコンを2台目として持ち運んで仕事用に使用するみたいです。
ベトナムで新品のノートパソコンを購入した場合は、15万円から20万円はするそうで、庶民には手が出せない金額だそうです。公務員の平均賃金が月2.5万円から3万円からすると、手が出せないのは分ります。1年分の給与を使用する事になる金額ですから、個人で購入するには高すぎる金額です。
バイクもほとんど日本製で、ホンダ、ヤマハ、スズキと99%日本製のバイクが走っています。故障も少なく燃費もいいので人気があるそうで、バイクの中古品を日本から輸入しているようです。新車もたまに見ますが、結構な値段だと思います。ホーチミンはインフラ整備が遅れているので、唯一の移動手段としてバイクが使用されています。
今度、ベトナムに来るときはまた連絡をして下さいと言われ、時間と資金が出来ればハノイからホーチミンへ電車での旅行を計画しようかと考えています。ハノイには知り合いはいませんが、S氏の紹介でハノイに滞在している人を紹介するからと言っていただきました。
世界は広いです。日本は国境が海のところにあるので、実感として隣の国との国境線を意識しませんが、一歩先が違う国という感覚はなかなか新鮮な感じです。ベトナムからカンボジアへの入国の際も、簡単な審査で入国が出来驚きました。パスポートは本当にありがたい書類だと改めて感じました。
今日は一日外にもです。一日PCの前でブログを書いたり、本を読んだりと過ごしました。明日からは、また、仕事が始まります。11月です。本当に1年はあっという間に過ぎ去っていきます。今年もあと2ヶ月で今年も終わります。

ある施設の状況

長男がS施設の入浴介助のアルバイトを週4日間(1時間程度)する事になりました。そこの施設で働いている、職員さんから要請があり、長男は受ける事にしたみたいですが、保証人が2名必要との事。
I氏にその話を昨夜したところ、その施設で虐待があり、職員が毎月虐待がしたかどうかというチェックをしなければならないみたいで、大変だという事みたいで、それが直接の原因かどうかは分りませんが、うつ病にかかった人が3名も出ているみたいで、人手不足で施設の人の手当が出来ない状況が生まれているみたいです。その為に、入浴介助のアルバイトを捜していて、長男にその話が舞い込んだみたいです。24時間施設なので、3名も休職状態というのは、異常な状態です。うつ病は、なかなか治らない病気なので、時間がかかります。

今日も早起きしてしまった

今日も何時にもなく、早起きをしてしまいました。特にやることもないので、PCの前に座りブログを書く事にする。昨日の土曜日は、K物センターの仕事が最後までのやりきりなので、18時まで残業になってしまいました。私は送迎があるので、17時前には仕事を終え、大阪市内から来ている人を送迎する事になる。送迎が終わったのは18時30分には終わり、家に帰ろうと思っていた時にI氏からメールが入る。京橋で飲もうかという誘いのメールである。車を車庫に置き、地下鉄で京橋に向かい21時まで飲んで帰宅しました。
K物センターも2期連続赤字で3期連続の赤字になればK物センターの責任者の責任問題が起こってくるので、経費削減に躍起である。K物センターには私たちR支援センターとM・R会社と3社が下請けとして入っている。R支援センターには5%の経費削減、M・R会社には10%の経費削減を要請されそれぞれ、受け入れたようである。電気もいらないところの蛍光灯は外し、夏のクーラーの温度設定や無人の時はスイッチを切るように、ご丁寧に張り紙までしてある。なみなみならない経費削減努力である。
経費削減のため、下請け会社はそれぞれリストラをしているようである。冷凍部門を担当しているM会社は、土曜日は商品の数が少ないので、ラインも減らし、そこで働いているパートさんや従業員は無休で強制的に休みになっているそうである。また、冷凍商品を配送時に使用する、ZPという冷凍商品を入れる箱があります。M社がリストラをしたために、その箱を作る人が少なくなり、私たちR支援センターにZP作りを要請してきた。最初は800箱程度作ればいいという話で、オリコン(商品を入れる箱)を洗浄する時間を割いてZP作りに行く事になりました。さらなるM社がリストラをしたために冷凍商品を入れるZPを作る人がいなくなり、今度は1600箱作って欲しいという要請があり、時間を延長しZP箱作をする事になる。私たちは何でも屋かと思ってしまいます。
冷凍商品を入れるのに必要不可欠なZPが無ければ配送すら出来ないのに、M社も何を考えているのか、M社もギリギリのところで会社運営を余儀なくされていると思われます。K物センターにも経費削減を要請したために親会社としての責任があるのではないかと、私は思います。
K物センターの経費削減が私たちR支援センターにしわ寄せが来る格好になってしまいました。R支援センターも収入が大幅に減る事になっています。午前10時から午後2時までの間で、途中、休憩や食事時間があるので、実質作業時間は3時間15分でZP1600箱作っても、1600×5.2=8320円しかなりません。実際、1600箱を作る事は無理だと思われます。反面、洗浄した場合は一箱洗浄すると5円になります。1時間で約9~10台(1台96個)なので、3時間15分作業をすれば2880箱×5円=14400円になります。K物センターも洗浄の経費を削減したいと考えているので、一石二鳥と言うことになる。反面、仕事は増えるがR支援センターは大幅な収入減になります。
また、米の商品を人海戦術でなんともまぁ、古いやり方で商品を箱に入れています。腰痛になる人が増えるのではないかと思います。もう少し最新のコンピューター制御の設備をした方が、長い目で見れば、人件費の削減や減価償却費も計上できるので、最低限の人員で仕事ができるのになぁと、横目で人ごとながら見ています。
関西圏を中心にスーパーを展開しているKスーパーの物流センターは最新のコンピューター制御の設備で必要な商品をロボットが取りに行き箱詰めしているのをテレビで放映されていました。そこは年商1000億円を越えていて、さらなるスーパーの出店を計画しているそうです。また、そこの会社のモットウーは、①社員を大切にする②地域密着型③苦情はファンを増やすので丁寧に対応しているとの事。K物センターやP協もこのKスーパーのモットウーを学んで欲しいものだと個人的には思います。
今は、円高・デフレ不況で消費が冷え込んでいて、1円でも安い商品を消費者は求めている時代です。P協の商品はオリジナルな商品は皆無だと言ってもいい状態で、ほとんどが既製品の商品を大量に購入して、組合さんに提供しているが、他のスーパーに比べても安いとは言えないのではないでしょうか。ただ、個人宅配をしているので共働きや高齢者には喜ばれているみたいですが、他のスーパーも個人宅配を始めているところも出てきています。
長々と書きましたが、これが、今私が働いているK物センターの現状です。下請けばかりにリストラを強要しないで、P協の正職も痛みを分かち合わないと、誰も納得しないのではないでしょうか。今後、景気がよくなれば、M・K会社の職員は辞める人が出てくるのではないでしょうか。今は、不況で辞めたくても辞められない、それぞれ、家庭があるので我慢しているが、景気がよくなれば、条件のいい会社に転職される方が増えるのではないかと思います。下請け会社に支えられて成り立っている状況をK物センター・P協さんよ忘れてはいけませんよ。

年末はスキーへ

今年の年末は、4年ぶりのスキーに行くことになりそうである。12/30日は有休を取得し、年末の忙しい時期だがラインも1本減るので何とかなるだろうと思う。日程は12/29日夜10時に茨木駅近辺からバスで出発、帰阪は11年1月2日の早朝である。行き先は毎年同じ妙高高原のスキー場である。
若いときは技術の向上を目指したりしたが、今はスキーを楽しむ事になる、この年になると技術よりも楽しむことの方が楽しい。後は、スキー場にあるレストランでビールを飲み雪景色を見るのも楽しみの一つである。
夜は夜で、参加者たちと一緒に飲み会になる。昔は一升瓶が何本か開いたが、今はそんなに飲まなくなった。みんな年をとってきたからだと思う。

2010年10月29日金曜日

久しぶりに奈良公園へ

今日は、いつもより早めに起きて奈良公園へ行きました。目的は正倉院の宝物を国立博物館で展示しているとニュースで聞き、平日なので空いているだろうと思い行くことにしました。何のことはない国立博物館は長蛇の列、本当にビックリしました。まさか、平日でこの列はなんだと思い並ぶのをあきらめ、仕方なしに大仏を見学することにしました。東大寺も人、人、遠足や修学旅行生で満員の状態、それに加え、海外からの旅行者、特に中国からの旅行者が目につきました。
平日で正倉院展がこの長蛇の列なら、日曜祝日は、もっと多くの人が見学に来るだろうと思います。見学が出来なくて残念でしたが、またの機会に行くことにします。
ベトナムから帰国中のS氏さん今週の土曜日も神戸の友人宅に泊まるとのこと、私も誘われたが、今回は都合が悪くキャンセルをI氏に伝える。11月2日にはベトナムに帰国するとの事のなのでいけなくて申し訳なく思ってしまう。
11月6日(土)は福保労結成60周年の記念レセプションが開催されます。歴代の大阪地方本部の委員長を招待して、開催されます。私がいつもお世話になっている、H先生も参加するとのこと、私も仕事が終わり次第、参加することにしています。
台風が近づいています。マンションのエレベーターにはベランダの荷物を飛ばないように注意をしてくださいという、張り紙が貼ってある。大阪は台風が来てもあまり被害が出ないので、大丈夫だと思うが、仕事の送迎があり、雨がひどくないように祈るばかりである。

2010年10月22日金曜日

S施設へ入寮された方の手記

私が以前働いていたホームレス支援の施設へ入寮された方の手記です。そこを辞めて1年以上の年月がたち、本人さんとは連絡も取れてない状態ですが、このホームページに掲載させていただきます。


私を支えていただき、また、K市(福祉事務所)、ハローワーク、Sホーム寮長、面接相談員の先生方、理容店、K市にいる友人・知人、また私の子どもたち(長女、長男、次男)に2年ぶりに再会できたました。色々な方々のご尽力・ご協力いただき感謝の念に耐えません。
福祉事務所の協力の元、このSホームに入寮することになりました。はじめの2日間は過去の色々なこと、子どもの幼い頃の出来事、兄弟愛、両親の顔、こうして色々書いていると涙が出て悲しいやら、恥ずかしいやら・・・。楽しかった結婚式の2人の笑顔も、遠い過去のものとなって、今から振り返ると人生は七転八起(気がつく頃には)、人間という漢字そのものの意味を理解し、だから人間のいいところ、お互いを支え合って生きる(生活すること)事に早く気がつかないと、濃霧のように先が見えない中を走っても、途中で脱輪、事故を起こしかねないということを自覚しなければ、社会(自立)への旅立ちは難しいことである。
昔の人の格言に、「井の中の蛙、大海を知らず」と、同じ場所にいつまでも起居していても、世の中が今現在の動きが自分には分からない。自立心(目で見て、判断し、そして行動する)、自分が今、何をしたらよいか、どうしたら社会復帰できるか、61歳の人生を過ごし、まだこれから明るく挨拶できる。視界良好の道を、目標(自分の生きる姿、道程)に向かってスタートし、頑張って旅に出て、決して挫折をしてはならない事に心を配りながら、自分の姿(心の中)を、種から実になり旅に出る、社会の一員として鏡に映る、自分の姿を見てもらう旅でもあると感じております。
私は今、現在病気もなく健康体そのもので「さあやるぞ、頑張るぞと強い心で」行動を起こし、仕事を探し仕事に専念し前に進んでいきたいと考えています。
私は人間相互の理解を持って、それを大切にしながらSホームを旅立っていきたいと思っています。
今、現在Sホームに在籍されている皆さんも、人生の行路に置いて、それぞれ人間にも天分があります。心を謙虚にして周囲の言葉に耳を傾け、決してあきらめることのないように、自立に向けた行動を切にお願いしたいと思います。
芥川龍之介の著書「くもの糸」を読まれると、自分の持っている心が「プラス」であったか、はたまた「マイナス」かよく分かると思います。断じて挫折してはなりません。大輪の花を咲かすのです。自分の心の中の良心に従って、徳を積み重ね、歩む方向を見定める事により、心構えも変化すると思うし、私も今、澄み切った太陽の赤々と燃え立つ太い姿がこの目で見える。そして、自分の質が変わり細胞の隅々までに機能していることを感じています。ありがとう。また、うれし涙が出て書いている字も太くなってきました。
人間の生きる道程、それは相互の信頼から成り立っている。そして「喜怒哀楽」の姿を写している。行動、生まれてきた自分の姿の意味が、人生の質、心構え、歩む道すべて体内の隅々まで機能している。つまりサクセスストーリーである。人間素直になりたいものだ。
入寮体験から社会復帰への道程
人生の行路に歩む、今を懸命に生きながら自己探求を怠らず、願望を持ち準備を進める事、決して挫折してはいけない。
到達点を明確にして前向きに努力する。行動すればチャンスは無限に与えられる。自分の中の良心に従って徳を積むこと、自分自身どのように対応するかによって人生の質が変わります。歩むべき方向が定まってきます。心構えが変化するのです。そして、人生の隅々までもが機能しているのです。
人生の行路において「どんな人間にも、それぞれの天分がある」心を謙虚にして周囲の言葉に耳を傾け拝聴せよ。下落しても「くもの糸」等に断じてなるな、大輪の花を夢見よ。皆一生懸命に生きている。道は、自分が悟り確信の念を持って、歩めば必ず道は開けると信じることなのだ。
父の愛は慈、母の愛は悲である。父の恩は山よりも高く、母の愛は、海よりも深し、人は誰しも父・母を縁としてこの世に生を授けたるもの。
人間は「喜怒哀楽」の繰り返し、人と人の集まり、これが人間である自覚を持って支え合って、精一杯生きれば夢も希望も生活もわいて少しは、人生は楽しいものだ、終わりはない。

今は、仕事にも就かれ自立した生活を送っていることだと思います。まだまだ、ホームレス問題が解決したわけではないと思います。私の家でもアルミ缶を回収する人がいます。
デフレ不況や円高でリストラされ、路頭に迷う人はこれからも増えてくるのではないかと思います。
本人の自立したいという意欲も大切ですが、行政や大企業がやはり支援を行わないとホームレス問題は解決しないと思います。

ベトナムの友人と、神戸で会うことになる

ベトナムの友人が、私の友人宅に宿泊し日本での用事をするとのことである。明日の土曜日には、私も仕事が終わり次第、神戸まで行かなければならない。2ヶ月ぶりの再会である。友人の近くの店で歓迎会?を行うことになる。私もそのまま友人宅に泊まり、日曜日には自宅に帰宅することになる。どんな話に花が咲くやら、今から楽しみである。

次男の就職先が内定する

秋も深まり食欲の秋、スポーツの秋、就活の秋と何をするにもいい季節である。次男は短大の2年生就活の時期である。学校からはS施設への就職を斡旋されたが、どうも合わないようで、違うところの施設をさがす。私の友人でI氏にお願し働きやすい施設を紹介してもらう。面接をし、結果は1週間後になるとのこと、その後、施設から連絡があり、何とか内定することが出来ました。
児童養護施設なのでいろいろな事情で施設に来ることになる、子どもに対して優しいい中にも、厳しさも教えてほしいと思います。
内定が決まり1週間後には、正式の通知が来るということである。1年間は寮生活をしなければならないそうで、我が家から一人出て行くことになる。少し寂しい気もするが、いつまでも子どもじゃないし、社会人として仕事や生活に頑張ってほしいと節に願うばかりである。

2010年10月17日日曜日

昨夜は友達と長男と飲み会

仕事の送迎が午後7時に終わり、友達にメールを入れる。少し腹も減り、一緒に飲もうかと連絡を入れると、OKの返事が返ってくる。ちょうど、市内の作業所運動会の準備が終わり、私の息子もその準備に行っていて飲み会をするという事なので、私も参加する。あまり自分の息子と一緒に飲むのは少し気が引ける。息子も21歳、作業所の非常勤として働いているが、学校を卒業しても就職先もなく、仕方なしに作業所の非常勤として働いている。親の背中を見て育っているのだなぁと感じてしまう。次男も児童養護施設への就職を希望して、先日面接に行ったようである。内定がもらえれば言う事はないのであるが、こればかりは相手が決める事なのでどうにもならない。仮に決まればこれはこれで、嬉しい事である。家族全員が社会福祉の仕事に就く事になる。子どもは親の背中を見ながら育つというのは、嬉しいようでもあり、複雑な心境である。
また、違う友人から電話が入り今年も年末にスキーツァーを計画しているので、今年は参加を是非して欲しいと要請の電話であった。そういえば、前のZ法人を3年前に退職してから行けていない。
行先はいつも同じスキー場で、妙高高原のスキー場である。職場に無理を言って、有給を取得して行こうかと考えている。このツァーは16年間続けて参加している。長男が3歳の時に連れて行き、ソリ遊びやスキーを教えてやった事を思い出す。次男も一緒に連れて行き、スキーを教えてやった。
今はボードをしているが、私はどうもボードは苦手で、やろうという気持ちは余りない。
長男も行くような事を言っていたので、3年ぶりの参加になる。スキーの技術の向上よりも、ストレス発散と気分転換とメンバーと一緒に飲む酒が何とも嬉しい。妙高高原の空気や雪景色は何とも言えず美しい。
1年は、あっという間に過ぎ去ってしまう。私も53歳年金をもらうまでまだ、9年も働かなければならない、支給年齢が引き上がればその分だけ働かなければならない。元気な内は働き、続けるのはいい事である。私の知り合い等は、58歳で自己退職を余儀なくされ、就活をしている、年齢も高いので正規での雇用は皆無だと、ホームページに書いている。

ベトナムの友人が日本に帰国予定

先月、ベトナムに行きお世話になった、友人が日本に帰国するというメールが入りました。
10月の下旬には日本に帰国し、11月の初旬にはベトナムに帰国するという日程だということです。その間日本での用事を済ませるようです。また、お会いし話が出来るのを楽しみにしたいと思います。今度、ベトナムに行く場合は、ハノイから電車でホーチミンへ行きたいと計画をしていますが、まぁ、時期をみて計画を実行したいと考えています。

2010年10月15日金曜日

PCが復帰しました。

先日、壊れたと思いJ新に修理を依頼したけれど、基盤が壊れているかもしれないから高くつくと言われ、頭をたれて帰ってきました、しかし、いろいろいらっているうちに、文字が打てるようになりました。基盤は壊れていなく、ナムロックがかかった状態で、文字が打てないことが分かりました。やれやれ、一度、リカバリをして初期設定にしようとも考えましたが、また、いろいろなソフトをインストールのに時間がかかるので今回は今の状態で使用することにしました。J新の人はあまりPCのことは分かっていないのではないかと、ちょっと思ったりしましたがキーボードに水がかかれば中の基盤がやられる言うのは、J新内でマニュアルがあればそういうでしょうね。これからはJ新で買い物をするのは、少し考えてしまいます。ビックカメラかヨドバシカメラで電気製品やPCを買うようにと思ってしまいました。J新よもっとお客さんの気持ちを考えろと言いたくなります。Tガースを宣伝文句にするくらいなら、お客さんのことを一番に考えろと言いたくなります。これは言い過ぎかなぁ。
先日の職員会議で、K福祉会とN福祉会の理事会の交流会があるという報告を受けました。両法人の統一に向けた、第一歩かなと自分なりに思ってしまいました。私が今の職場に就職したときに、責任者の方が将来的には、両法人を統一すると行っていたことが、頭をよぎりました。これからいろいろな事業を展開する上で、バラバラでやるよりは統一して力を集中した方が効率的なことは言うまでもありません。
どのようになるかは、あまり深読みは控えておきますが、今後、いろいろな事業を展開するとも言っておられましたので、大きな法人になるように祈るばかりです。

2010年10月11日月曜日

PCの修理代

先日壊れた、PCの修理にJ新に行きました。キーボードに水がかかって文字が打てないと言ったら、担当者が中の基盤がやられているという話でした。修理代も4万円~5万円はかかると言うことでビックリしてしまいました。修理代にその金額を出すのであれば新しいPCを買った方がいいなぁ、と思い早々に引き返しました。
土曜日には職場の人たちと一緒に処季会を開きました。京橋にある大同門で焼き肉を食べながら、交流を図りました。私も今の職場に来て1周年あっという間に1年が過ぎてしまいました。最初は肉体的にきついなぁと感じるときもありましたが、今は身体もなれつつあります。仕事は楽しく、やりたいとつくづく感じます。
障がい者の人や職場の人たちも年齢的に高い人が頑張っているのに、その人たちの後ろ姿をみながら、仕事をやりたいと思っています。

お墓参り、ブルースのライブへ

日曜日は、久しぶりに墓参りに出かけました。妻と、長男、私と3名で出かけました。次男は学校の単位獲得のため実習に行っているために、行くことは出来ませんでした。次回は4名で出かけたいと考えています。墓周りをきれいに掃除し、雑草も抜き、きれいにしてきました。いつかは自分も入ることになるお墓、子どもたちが後をみてくれるだろうかと考えてしまいます。
夜は友達と一緒にブルースのライブに出かけました。カラオケとは違い生演奏はなかなか迫力があります。店の中は満員で、ブルースを好きな人が多いのに少しびっくり、中には高校生もいて、大のブルースファンで店に来て聞きに来ているそうである。約2時間半ブルースを堪能することが出来ました。

2010年10月8日金曜日

PCが壊れてしまいました。

昨夜、モバイルのPCのキーボードに水がかかってしまい、文字が打てなくなってしまいました。多分、中の回路がショートして壊れたものと思います。モバイルのPCは冬のボーナスで買うように考えています。世の中一寸先は何が起こるか分からないと改めて思いました。皆さんもPCを打つときは、水がかからないように気をつけて下さい。ウインドウ7を買おうかと考えていますが、今しばらくは今のPCで我慢我慢です。

久しぶりの犬の散歩

久しぶりに犬の散歩に行きました。プードルの「ひな」が散歩に行きたいと何度もせがんでくるので、雨が降る前に行きました。M緑地は緑にあふれ、彼岸花も咲き秋なんだなぁ~と感じることができました。散歩中は犬は自由に走り回っていました。私は木のいすに座り、2匹の犬行方を目で追っているだけでした。雨もぽつぽつと降り出してきたので、仕方なしに家に帰ることにしましたが、犬の方はまだ、遊びたいようで名前を呼んでも帰ってきませんが、何度も名前を呼ぶと帰ってきてくれました。
先日は、久しぶりに友人に会うことができました。今は定年され嘱託で仕事は続けているそうですが、めっきり白髪が増えてきたなぁと思いました。
明日は、職場の人と一緒に京橋で処季会を開催することになりました。焼き肉屋で交流を図りたいと思います。

2010年10月3日日曜日

ワーキングプア(働く貧困)

今日の新聞に年収が200万円以下の労働者が4人に1人が200万円以下で働いているとの事。200万円を12ヶ月で割ると約16.7万円にしかならない。ワーキングプア(働く貧困)である。
新聞からの抜粋で申し訳ありませんが。「年収200万円以下の層は前年から32.4万人増加し、1099万人になったそうである。民間企業の給与所得者の24.4%で、1000万人を越えるのは4年連続であるそうです。
年収100万円以下の層は08年に前年比16.9万、09年にも15.8万人増え399万人になりました。99年からの給与所得者の増減を年収別に、300万円以下の低所得者層が急増し、200万円以下の層は296万人の増加です。」300万円を超え2000万円の層は激減、富裕者層は増加しました。多くの中間層が低所得者層に落ち込んだという事が伺えます。
ワーキングプア(働く貧困)の増加が目立ち始めたのは、99年に労働者派遣法が改定され派遣が原則自由化されたため、正規社員採用より非常勤、派遣労働者が増加したために給与が大幅に低下したという事が書かれていました。」
月16.7万円で生活をするとなると、ぎりぎりの生活を強いられてしまうでしょう。家賃や食費など必要経費を差し引くと、他に欲しいものも買う事は出来ません。
今の日本の経済はデフレで、商品の値段は下がると共に給与も同じように下がってしまうという悪循環が続いています。労働者の給与を引き上げない限り、今の不況はなかなか抜け出す事は困難ではないかと思います。まして円高で輸出産業は軒並み厳しい経営を余儀なくされています。中には国外へ出て行く企業もあり、そこで働く人は解雇されてしまい、さらなる悪循環のサイクルが途絶える事はないと思います。
日本の借金は900兆円、この借金は誰返すのでしょうか。国が国債を乱発してこの借金が積み上がってしまいました。最終的には私たち国民が、この借金を返す事になるだろうと思います。国債返金のために借換債を発行し、まるで自転車操業です。国が借金を返せなくなると宣言するとこの国は破滅への道を歩む事になるのではないかと心配してしまいます。ものすごいインフレが起こる可能性もあります。ハイパーインフレになれば企業は生産計画を立てる事が出来ず、失業者が街に溢れる状況が発生するかも知れません。
銀行閉鎖、引き出し額の制限、紙幣の切り替えで家にあるタンス預金も銀行で両替をすることなり、国民の資産は確実に減額されてしまうでしょう。こんな状況が発生しないためにも政治がしっかりとしなければ、本当に日本沈没になってしまいます。

ベトナム珍道中-6

南ベトナム大統領府を見学後は徒歩で、戦争跡博物館へ行く事にしました。多分近くだったという記憶だけで歩いたのですが、行けども行けどもたどり着かず、道行く人にWAR博物館の道を聞けども、大雑把な案内でよく分りません。それでも、何とかたどり着く事が出来ました。情けない道案内人です。
3年前に来た時より、建物が新しくて建て変わっていてビックリしました。本館が4階建てになっていて、それぞれのフロアーはテーマ毎に展示されていました。
←この写真は田んぼの片隅に母子とも殺され放置されている写真です。
また、地雷か何かを踏んで身体がバラバラになった死体を、アメリカ兵士がニヤニヤしながら持ち抱えている写真もあり、見るに堪えない写真でした。
戦争により民間人までもが殺される、戦争は何の建設的な利益をもたらす事もなく、破壊と憎しみが残るだけだという事が、嫌と言う程知る事が出来ました。アメリカという国は本当に戦争が好きな国なんだと改めて感じる事が出来ました。今も、イラクやアフガニスタンへ大量の兵士を派遣していますが、アメリカの青年が戦争のために犠牲になり、それ以上にその国の人たちも犠牲になっている事を考えれば、アメリカは他国に口出しをせず、すぐに撤退をすべきであると思います。
今回のベトナムは6回目になります。ホーチミンばかりを見学をしてきたのですが、次回はハノイから電車に乗り、ホーチミン市への旅を考えています。時間とお金が出来れば計画を練ってみたいと思っています。ベトナム珍道中の報告はこれで終わります。

2010年10月1日金曜日

ベトナム珍道中-5

ベトナムも最終日になりました。今日の夜には、19時発ホーチミン空港からクアラルンプール行きの飛行機に乗車しなければなりません。クアラルンプールは23時45分発の関空行きの飛行機で、24日の朝に関空到着になります。
今日は、市内観光と言う事で、元南ベトナム大統領府と戦争跡博物館へ行く事になりました。最初は、南ベトナム大統領府へ徒歩で、入場料は15000ドン(日本円で約75円)大統領の執務室や閣議を開く部屋、婦人の寝室や食堂などがそのまま見る事が出来ます。屋上にはアメリカ軍のヘリコプターがそのまま残っていて、敗戦が確実になり脱出用に置いてあったようです。

 地下はアメリカ軍の作戦司令室があり、当時のまま保存されています。
↑南ベトナム大統領府を正面から撮影した写真

庭には、北ベトナム軍の戦車と飛行機が展示されていて、南ベトナム解放のシンボルとして残されています。

今日から10月

今年も残り3ヶ月。1年が早く終わっていく感じです。今日から煙草が大幅値上げ、少し買いだめはしていますが、焼け石に水です。

金曜日が休みなので家の中は私と犬2匹がいます。他の3名は仕事と学校へ行っています。犬はそれぞれの場所で寝っ転がっています。私も犬と同じでパソコンに向いながら、時々ごろごろと寝っ転がってブログを書いたりしています。
←寝っ転がっている、プードル犬の「ひな」もう一匹は、違う場所で寝っ転がっていて、犬同士はあまりなかは良くありません。
これが、朝起こしに来るので、休みの日は来るなぁと叱ったりするので、最近は起こしに来なくなりました。見ているだけで癒される時もあります。

ベトナム珍道中-4

メコン川ツァーも終わり、18時前にはホーチミン市に帰ってきました。その後は、ホテルに帰り近くにあるベンタン市場の周辺にある店でフォーを食べました。夜は屋台や雑貨店が店を出しています。ベトナムも3日目なので少し疲れもあり、早い目にホテルに帰りました。

2010年9月26日日曜日

韓国平和ツァー-4

(2)西大門刑務所歴史館


「西大門刑務所歴史館」は漢民族が、日本帝国主義による強制占領という痛みを抱えてきました。この時期は民族のプライドが傷つけられ、民族自らの発展が中断されるなど、苦難の歴史であった。それにもかかわらず、我々は歴史的な現実に屈したり、妥協したりせず、民族の独立に向ける闘争の歴史があり、そのおかげで今の私たちが存在し得ているのです。西大門刑務所歴史館はこのような歴史を引き継ぐ為の教育の場として開館しました。明日を担う若者たちはもちろん全国民が、国の為に命を捧げた烈士たちの志を偲び、屈辱的な過去の歴史を克服するために、国を愛し民族を愛する志を学ぶ場とななるように整備中でした。

↓女性専用の刑務所
 また、発掘途中でその発掘が終われば、西大門刑務所の全容が明らかになると思います。

西大門刑務所の沿革

1908年10月21日 京城監獄として新築

1912年9月3日  西大門監獄として名称変更

1923年5月5日  西大門刑務所と名称変更

1945年12月21日 ソウル刑務所として名称変更

1961年12月23日 ソウル教導所と名称変更

1967年7月7日 ソウル拘置所として名称変更

1987年11月15日 西大門拘置所が京畿道義旺市に移転

1998年11月5日  西大門刑務所歴史館開館

 

終戦後も西大門刑務所は韓国政府により刑務所としての機能を有していました。当時は、軍事独裁の時代でもあり、北朝鮮との軍事的対立などもあり、軍事体制に反対する国民を投獄するための刑務所になっていたようでした。

ベトナム珍道中-3


ベトナム3日目、今日も朝、6時過ぎに起床、ホテルの朝食を頂きに2階食堂へ、色々な国から来ている人たちと一緒に、昼食をいただく。メインはフランスパンを主食におかずは適当に皿にのせ、いただきました。朝食後は、シンカフェまで徒歩で行き、ワンデーのメコンツァーの予約をする。料金は一人20万ドン、日本円で1090円です。バス代、昼食代、ガイド代でその値段です。8時30分発ですが、実際には、9時10分に出発になりました。大体が大雑把なお国柄みたいで、日本のように時間どうりには来ないと思った方がいいと言われました。バスで3時間余り、写真の港に着きここから、舟に乗りメコン川を遊覧する事になります。大きな大河なので、本流なのか支流なのか素人には分りません。中州の中に在る食堂で、昼食をいただいたり、売店などもあり、メコン川のツァーを楽しみました。つづく

MIXIに掲載していた日記を掲載

MIXIに掲載していた過去の日記を再度、「ぼちぼち やろか」に掲載しています。年月日が違うのでそこは、ご勘弁の程宜しくお願いします。MIXIでは写真が掲載できないエラーが出てしまい、せっかく取った写真を掲載したいので、こちらのホームページに乗り換え?しました。MIXIにも掲載はしていきますが、Bloggerにも掲載していきます。「ぼちぼち やろか」が主になるかも知れません。
今日は、一日パソコンの前に座り、ブログを書いています。
いつも相談に乗っている青年から電話がありました。今日、ようやくホームヘルパー2級を取得したという電話でした。まだ、仕事が見つかっていなく10月に入れば、就活を再開するとの事。いい仕事が見つかればいいのですが、今は厳しい就職状況です。その父親も自己退職をされ、今は失業中との事、私も失業の経験があり、自己嫌悪になったりしたときもありましたが、京都でホームレス関係の仕事をしたり、今は障がい者の雇用の仕事に就いていますが、施設で仕事をしていた時に比べると身体の方がついて来ない時がありますが、歯を食いしばり仕事をしている状態です。色々考えても結果は分りません。なるようになる「ぼちぼち やろか」という気持ちで毎日の生活をやるしかないと考えています。

ホームレスの仕事

前の職場を退職してから、2009年10月から京都の方で仕事をしています。一応、法人の格の職場ですが、100年に一度の恐慌の嵐の中、派遣切り、契約切り、ホームレスの人たちを救済する仕事です。生活保護を受給してホームにこられます。ここを足場に仕事探しや体の治療などをしながら社会復帰していくのですが、来る人は海千山千の人ばかりで、一筋縄ではいかない人ばかりです。一番最悪なケースは、生活保護費を受給したその日に、いなくなってしまう人や、利用料を滞納している人など、運営は火の車です。そんな人ばかりでもなく真面目に仕事を探し居宅を確保して、退所される人もいます。今は精神疾患の人が多くなってきています。知的障害者、統合失調症、人格障害者等々、社会福祉の谷間に挟まり行くところがないという人がとりあえず、来ているという感じです。京都府や京都市からの財政的な援助は一円も出ていません。入所者の生活保護費から運営費をいただいているという、施設です。本来ならば行政責任なのに民間に丸投げといった感じは否めません。行政からの財政的な援助がなければとうていやっていけるところではないと思います。よく赤旗などでそのような悪徳業者の記事などが出たすると、なんかやるせないような、気持ちになります。いつまで続けられるか分かりませんが、続けられるまでは続けたいと思いますが、次の仕事が見つかれば退職することも念頭に置いています。

韓国平和ツァー-3

第3館では、「国を守る」日本帝国主義から国を取り戻すため、韓国の愛国烈士が行った義兵運動や愛国啓蒙運動、国債補償運動など多方面で行われた解放運動が体系的に展示されています。 第4館は、「同胞の叫び」1919年3月1日、韓国民族が日本帝国主義からの独立を勝ち取ろうとする野望と力量を全世界に「韓国三・一独立運動」が展示されています。 第5館は、「国を取り戻す」日本帝国主義との武装独立運動における、韓国独立運動家による民主独立軍の中国での活躍ぶりと、大韓民国臨時政府が1940年9月に創設した韓国光復軍、日本帝国主義植民地時代の義烈活動などが展示されています。 第6館は、「新しい国づくり」海外で樹立された大韓民国臨時政府の活動や国内外の知識人が中心になって行った民族文化守護運動、光州学生独立運動、農民、労働者などのような民衆の独立運動関連資料、模型が展示されています。   第7館は、1919年3月1日、日本帝国主義の植民地統治を否定し、韓国の絶対独立を主張した3・1独立運動の結果として樹立された大韓民国臨時政府の活動をメインに展示されています。 時間の関係ですべての展示館を見ることは出来ませんでしたが、日本が韓国を植民地化したときに、行った非人間的な行為が見学することが出来ました。戦争の愚かさとともに、そのような状況に追い込まれたときには、人間の理性的な感覚がなくなるのだと思いました。

韓国平和ツァー-2

韓国の釜山空港に着き、その日は市内観光をしました。釜山タワーに上り、釜山の街がきれいに見えました。夕方には安い露店の店で安い韓国料理を堪能しました。翌日は、釜山駅からKTX(高速鉄道))の乗車しました。日本の新幹線より一回り小さな車両ですが、乗車料金は日本円で約3000円程度でした。その金額が高いのか安いのか分かりませんが、発車時間前には、席はほとんどうまっていまいた。 KTXで約1時間40分ほど乗車し、最初の見学先である「独立記念館」へ向かいました。駅からはタクシー40分程度で着くことが出来ました。 広大な敷地に「独立記念館」はあり、家族連れやアベックがいたり、学校の社会見学で小学生が来たりしていました。 「独立記念館」は7館の建物からなっていて、第1館は「民族の伝統館」で韓国の歴史5000年の歴史がパノラマのごとく展示されていました。 第2館は「同胞の試練」というタイトルで、1860年、現物的文物を受け入れ、近代的な国家として変化を遂げつつあった韓国を武力で制圧し、弾圧、強奪など日本帝国主義による侵略行為や韓国の苦難な歴史が展示されていました。展示室には、韓国人を拷問している展示物があり、日本人の保安係が2名が一組になり、こん棒やムチで拷問したり、先の尖った鉄の棒を爪に差し込んだり、狭い箱に鋭く尖った釘を打ち付け、その中に韓国人を入れ揺すっていたり、女性には性的拷問を行ったり、さらには張り付けて銃殺刑にさらされる同胞もいました。拷問の結果それが原因で死んでしまった人は数え切れないほどいたと言います。 次号に続く

自己退職

3年前に障がい者の作業所を退職しました。退職した理由は、職場である男性が同僚の女性と肉体関係を持ち、その女性が結婚を前提にお付き合いしていた男性から私に電話連絡がありました。調べてみると他にも、7名ぐらいの女性と肉体関係を持っていた事が判明、職場の管理職ににその旨を伝えるとプライベートのことなので関係ないという返事でした。私は納得がいかず退職を決意しました。、皆さんのご意見はどんなご意見でしょうか?職場関係(7~8名)の女性と肉体関係を結び、その女性は退職をしました。退職理由は、一身上の都合になっていますが、関係が他の職員の耳にはいるのが嫌で退職をしたのではないかと思われます。その男性は今でものうのうと残って、チーフという役職についているみたいです。彼には妻も子ども2人もいる人で、社会福祉の仕事をするに値しないのではないかと私は思っています。ただ、男性が独身であれば何も言うことはありません。それを管理する人たちの責任はないのでしょうか。プライベートの一言で事が済んでしまう、何か違うやろ!?普通の会社でそれなりの注意はすると思うのですが、私の考えが甘いのでしょうか。皆さんのご意見をお待ちしています。韓国旅行記は引き続き書いていきます。

韓国平和ツァー-1

2008年6月26日~6月29日3泊4日の日程で韓国平和ツァーに出かけました。メンバー6名で前々から行きたかった、「韓国独立記念館」の見学が出来ました。広大な敷地に7館の展示室があり、日本が朝鮮半島を植民地化したときの非人間的なやり方で、韓国人民を武力で押さえつけていたという展示品や写真等々がありました。 日帝主義のやりかたはフランスやイギリス、アメリカ、ドイツなどと一緒で植民地にされた人民は本当に苦しみの中で独立を勝ち取るという、経験をされていたのだと痛感しました。 今、アメリカがイラクやアフガニスタンに軍隊を出して治安を回復しようとしても、必ず反撃を食らうことになるのではないかと思います。 戦争は建設的なことは一つもありません。それどころか、国民を死の淵に追い込むだけです。 次号に続く

ベトナム珍道中-2


ベトナムの2日目。朝、6時過ぎに起床、ホテルの2階で朝食をいただく、食堂には色々な国から来た人たちの会話が聞こえるが、何をしゃべっているのか全く分らない。中国語、韓国語、英語、ラテン語等々、色々な国からベトナムに来ています。メニューはフランスパンが主食、おかゆもあり皿に盛りつけていただきました。私はもっぱらフランスパンを主食におかずは、適当に盛りつけいただきました。ホーチミン市はバイクの数が中途半端ではありません。自動車よりバイクで通勤なり、荷物を運んだりしています。交通ルールはあって無いようなもので、マナーの悪さにうんざりしてしまいました。ベトナムでは移動手段のインフラ整備が無く、手軽なバイクが移動手段になっているみたいです。日本の援助で地下鉄の工事も始まっているという事ですが、完成しても乗る人がいるかどうか未知数だという話でした。今日はシンカフェ(旅行会社)に行き、クチの見学にハーフデーを申し込みました。ホーチミンから車で2時間ほどのところにあり、ベトナム戦争当時、南ベトナム解放戦線の拠点となったところで、一度も陥落することなく抵抗運動を続けていたところです。地下道が240キロを続いているとの事、一部は一般の人も入る事は出来ます。中にはいると、蒸し暑さと腰を半かがみにして歩かなければならないので、少し窮屈なトンネルです。こんなトンネルを掘り抵抗していたのかと、驚きました。後、武器らしい武器はなく、手製の爆弾を作ったり、穴を堀、落ちれば串刺しになるような穴を作っていたりと、色々と考えて、抵抗をしていたのだと感心しました。約半日、クチの見学をし、その後はホーチミン市に帰ってきました。市外は結構、道がすいていて順調に走る事が出来ましたが、市内にはいると、バイクの大群があり、渋滞でシンカフェにたどり着くまで時間がかかりました。ホーチミン在住の友人の紹介で、児童養護施設の見学に行きました。お寺が運営していて、赤ちゃんから18歳までの子どもが、130名程生活をしているとの事、養護施設の専門の職員は12名で、運営は寄付なり、店を開いてそこの利益を運営費に当てているそうです。国からの補助金は一切無いという状況だと説明してくれました。私たちも気持ちだけ寄付をさせていただきました。ホテルに帰り、近くにあるベンタン市場に行きました。観光客が沢山来ていて、市場の中にあるところで軽くフォーをいただきました。若い女性が、扇子を買ってくれとしっこく付きまとわれたりし、仕方なしに2ドルで買ってしまいました。(写真はクチの地下壕に入る穴で現地の人が実演してくれました。大きさは縦、横約30㎝の大きさです)

2010年9月24日金曜日

ベトナム珍道中-1

2010年 9月20日から24日まで、ホーチミン市に行ってきました。
今回で6回目のベトナム旅行なので、余裕を持って行けるかなぁ。と思っていたのですが、珍道中で関空からクアラルンプール経由でホーチミンに行くのですが、クアラルンプールの空港が広く搭乗口が分らないで、探し回りました。ようやく分り、その時に撮った写真がホーチミン行きの飛行機の機影です。
今回は3名での旅行だったので、何とかなると思いながらの旅行でまぁ、何とかなるものです。
ホーチミン市には、午後6時過ぎに到着し、友人の招待で、サイゴン川が流れるそばのレストランに食事の招待を受けました。川がそばに流れているので、涼しく料理もおいしくいただく事が出来ました。

2010年3月9日火曜日

社会と自然

都会に住んでいると、人間の中で自然というものが無くなってきてしまいます。本来人間も自然の一部として存在しているのに、都市の中から自然を排除してしまうようです。特に仕事をしていると、目にするものは全て、人工的なものばかりです。
あるテレビで、田舎で生活をしている人の話がとても印象に残りました。都会は人間ばかりで、面白くないという話を聞いた時に、人間生活の半分は自然の中で生活をすることの大切さを痛感しました。

日産ケリー前代表取締役の保釈決定 保釈金7000万円 東京地裁

金融商品取引法違反の罪で起訴された日産自動車のグレッグ・ケリー前代表取締役について、東京地方裁判所は保釈を認める決定をしました。検察はこれを不服として準抗告するとみられますが、裁判所が退ければ、ケリー前代表取締役は早ければ25日にもおよそ1か月ぶりに保釈される見通しです。一方、...