2010年11月28日日曜日

Sホーム時代の炊き出し

MIXIのHPに掲載した、Sホーム時代の炊き出しの状況を掲載します。

第2土曜日は、炊き出しや衣服の無料配布を行っています。今月も7/11に行いました。メニューは定番の豚汁とご飯です。


参加者は約80以上の方が参加していますが、来る人は同じ人が多く。たまに知らない人が来る程度です。豚汁だけ食べて、ご飯は持って帰る人が多く。夜のご飯に回すのではないかと思います。

ホームレスになった理由はいろいろで、派遣切りや借金から逃れる為、仕事がなく、アパートを追い出されホームレス生活を余儀なくされている人など、さまざまです。

時には、弁護士さんにも来ていただき借金についての相談や生活相談などもしています。借金の場合は、自己破産をすれば片はつきますが、自己破産せずに逃げ回っている人も多いと思います。

私の施設にもサラ金からの借金の督促状が何通も届きますが、宛名の人は今は、施設を出て就職をしたけれども、借金取りが来て職場にいられなくなり、行方不明になったりしています。

現実は厳しい世の中です。皆さんサラ金には絶対に手を出さないようにして下さい。

第二土曜日は、Sホームのホームレスさん向けの炊き出しをしていました。衣類や昼食の提供など時には生活相談や法律相談なども行いました。参加者の顔は明るく、本当にホームレスと思える人もいたり、また、同じようなSホームを運営している人たちが、参加者に声をかけたりしていたりしていました。多分、そこのホームに来てほしいから、来ているのだと思います。今でも続いていると思います。今は土曜日が仕事なので参加することはできませんが、また、機会があればのぞきたいと考えています。

11月最後の日曜日

今日は、子どもも家にいて妻は夜勤明けで一眠りしています。昨夜は、仕事が終わり利用者の送迎が終わったのが、18時45分腹が減ってきて、いつものうまかっぺ大将へビールと焼きそば、他のあてを口にしながら、腹を満たしました。家の近くなので、帰る事を気にすることなく飲むのは気が緩みます。ついつい飲み過ぎてしまうからです。余り飲み過ぎないようにと考えながら飲んで家に帰りました。

家では年賀状の文面の訂正。どうもうまい言葉が思い浮かばず文面とにらめっこしながら、悪い頭を駆使しながら適当の言葉に訂正しました。

テレビでは日韓合同演習のニュースが流れています。北朝鮮が挑発的な行為をするのではないかと懸念されていますが、国民がまともに飯も食えない国が、戦争なんかできるわけがありません。中国が背景にいるので、強気に出ているだけで、ただそれだけだと思います。でも何をするのか分からない国なので注意は必要かなと思ってしまう。戦争だけは避けなければなりません。でも攻められれば反撃するでしょうから。全面戦争になる可能性は、0%でないことも事実です。
私も韓国に行った時、北朝鮮との国境のところまで、足を運びました。北の方の山ははげ山で、燃料がないので木を伐採しそれを燃料にしているようです。イムジン河を渡り南に亡命する人もいて、その人たちは容赦なく、射殺されるそうです。引き潮の時には歩いて渡れるところがあるそうです。
今は多分立ち入り禁止になっているのではないかと思います。

2010年11月26日金曜日

年賀状の作成、一時金支給月

今年も年賀状を文面を考える時期になってきた。毎年、今年一年の家族の事をコラムにして書いている。年賀をもらった人から、感心されている。田舎の鹿児島の親戚にも送っている、そのおじさんが年賀状でいろいろ教えていただきありがとうと書いてあった。今年は何を書くか、枠は決まっているので、4人+犬2匹の今年一年の特徴を書くことになるが、自分のことは書きやすいが、妻や子どものことは、なかなか客観的に書くのは難しい。それでも、続けているので家族の事を書くことにする。年賀状の文面もようやく書き終わりました。やれやれ、後は印刷をするだけになりました。
12月は一時金(ボーナス)の支給月である。特にほしいものはない、PCを新型に変えようと考えたりもしているが、XPはまだ使えるので、ここは我慢のするしかない。スキーに行くのでその費用はいるが、それ以外は特に使い道はない。半分は妻に渡さないと、機嫌が悪くなるので渡すことになるが、残りは私の懐に入る。一時金があるのとないのとでは、生活の質が違う。以前は子どもたちの学費に消えていたが、それがないので少しはゆとりができる。その分、飲み代に使う金額が増えるのが現実である。
家族と忘年会をやろうかと考えている。就職祝いと20歳の祝いもかねての忘年会。
来年の子どもの抱負を聞きたいと思うが、正直には話をしてくれないだろう。親が一方的に考えを押しつけてしまわないように気をつけないといけない。
京橋あたりでやることになると思うが、子どもも酒も飲める年になったので、土曜日の夜に計画をしてみることにする。

今日はのんびりと起きてしまう

今日は、いつもより、遅くに起きてしまった。時計を見れば午後1時、腹は減るので、鰻丼と卵焼きを作り、とりあえず腹に入れる。休みの日はゆっくり寝ることが多くなった。仕事の疲れとお酒を飲んでいるので、休みの日はいつもこんな事が続いている。
昨夜は、Y氏と飲み会、店は「狸ばやし」魚も肉もうまい店である。木曜日は、余程のことがない限り、飲み会を行っている。話は仕事の話が多くなる。来月は3人で忘年会、京橋の平八亭でふぐの鍋で、一年の慰労を行う。皆さん60代、70代の人ばかりで、良く働く人ばかりである。O氏などは、重たい通称「オレンジ」を一度に2ケースも運ぶ、私も運んだことはあるが腰と膝がガクガクになる。それでも、足の筋肉をつけるために頑張っている。余り無理をしてほしくないと思う。以前は、自営業をされていて、縫製関係の仕事は中国などの安い国で作るようになると、仕事は減るは、連帯保証人になっていたために、借金が1000万円も背負わせられてしまう、その借金を返すために苦労をされた苦労人である。
私もその年になってそのようなことができるかどうか、自信がない。年金をもらうまでは、どちらにしても働かなければならない。支給開始年齢は62歳からである。あと9年間、元気で働ければ言うことはないが、そんなことを考える年齢になったのかと情けなくなる。まぁ、仕事があるうちは、健康のため、収入も得なければならないので、ぼちぼちと仕事をするしかない。貧乏人は死ぬまでは、働く運命か。
Y氏の息子さんも仕事を続いているとのこと、親としてみれば、少しは安心ではないかと思う。私の長男も非常勤として作業所で働いてはいるが、いつまでも今の状態ではいけないと、親として思ってしまう。本人はそんな親の思いは、届いていないかマイペースで仕事をしている。まぁ、プータローしているよりはましかと考えてしまうが、正職の仕事について思うのは親として当たり前のことだと思う。

障害者自立支援法

自立支援法「延命」許さない 障害者団体が集会を開く

障害者自立支援法に関する新聞報道
「障害者自立支援法を廃案に!」「私たちは新法を作るぞ!」。3つの障害者団体でつくる10・29全国大フォーラム実行委員会は、25日障害者自立支援法「延命」法案を廃案に追い込もうと、院内集会を開催される。
10・29全国大フォーラムの太田事務局長は、同日予定されていた参院厚生労働委員会が開催されなくなったことにふれ、「運動があったからこその結果です。制度改革を進めるために決してあきらめず、廃案に追い込むまで運動を続けよう」と呼びかけました。全視協の山城総務局長は、同法案は「同行援護」が盛り込まれ、視覚障害者の移動支援の点では前進するけど、応益負担の枠組みなど「悪法」の根本をたださない限り賛成できないと批判しました。HANDS世田谷の八柳さんは「仲間の多くの収入が僅かで、利用料が取られないけれど、法案には『応益負担』の仕組みが残っている」と指摘。「廃案にして、すべての障害者が地域自分の望む生活を送れるようにしたい」と決意を述べました。障害者自立支援法違憲訴訟の元原告、秋保さんは広島県から車いすで参加「今の政治は国民の事を考えていない」と訴えました。

参院での審議は、とりあえず開催されませんでしたけれど、自立支援法が「延命」される可能性は残されています。民主党は、障害者自立支援法は廃止し、新たな新法を作ると約束しています。全国で訴訟されていた違憲訴訟は和解し、障害者を含む人たちで新法を検討中である。障害者の人たちが、人として生きていける法律の早期成立を運動で作り上げる必要があります。

今年も残り1ヶ月

1年が矢のように過ぎていきます。今年も残り1ヶ月余り、来年はどんな年になるのか、分かりませんが、私が54歳になることだけは紛れもない事実である。振り返るとあっという間に時間が過ぎてしまったように思う。10代の時は、時間が長く感じられた。20代の時は、恋愛、失恋、仕事、諸活動に明けくれた。一番の思いでは、N訓練所への出向に行ったことである。その時は、結婚もし、子どもも生まれ何かと忙しい時間を過ごした。4年間で認可施設の見通しがつき、私の任務も終わりに近づいた。H先生がS作業所からT学園へ栄転され、N学園の担当もY氏がなることになる。私も出向を終わり、S作業所へ帰ることになる。何度かN学園へ残るように慰留されたが、自分の気持ちは変わらない。少し頑固なところが私にはあるようである。残っていれば管理職になる道が開けることになるが、そんな肩書きより自分の気持ちに正直に生きたいという思いが強かった。
私の友人であるI氏にもその話をしたことがある、大久保は変わり者だからといつも言われる。
Z法人に25年間(無認可作業所1年を含めれば26年)は、施設長によって作業所の運営が大きく左右される。H先生が施設長の時は、仕事も充実しやる気もあったが、H施設長が栄転や退職され、次に来た施設長は、「カス」ばかりの人である。いつも、法人本部の顔色ばかり気にしながら仕事をしている。サラリーマン的な施設長である。

2010年11月23日火曜日

長男と飲み会

妻も旅行で、私と長男の2名なので近所の居酒屋で夕食を食べました。特に話すことはないのですが、やはり仕事の話の主になってしまいます。今後、どうするのか、自分のやりたい仕事は何なのかと聞いても、分らんと言うばかりです。岡山の話をすると別に行ってもいいという返事、自分に合わなければ返ってきたらいいことだし、まぁ、どうするかは本人が最終的には決めることなので、あまりごたごたと言わないようにしようと考えています。

2010年11月21日日曜日

障害者自立支援法が改正される(きょうされんHPより)

障害者自立支援法違憲訴訟団の会見


 11月17日午前にも衆議院厚生労働委員会において、質疑もなく障害者自立支援法「改正」法案が可決される見通しと報道されています。

 裁判所で確認された基本合意により、平成25年8月には障害者自立支援法は廃止され、総合福祉法=新法が施行されることが決定しています。

 平成24年2月頃には廃止法案と総合福祉法が可決、制定される予定です。

 ところが、上記「改正法」の施行は、障害の範囲の点を除けば、概ね平成24年7月か4月頃に施行されるものです。廃案になった旧法の終末期1年半のうち後半の約1年間だけに、旧法の制度「改正」を実施するわけです。

 総合福祉法が制定され、新法移行に全力を尽くすべき時期に、廃案された法の「改正」を行うことは、新法移行に混乱を招くだけです。

 6月7日に総合福祉部会から提起された「当面の緊急課題」は対応されるべきですが、それは法改正をしなくても実現できるはずです。

 利用者負担についても、この「改正」案は、現状の現行法4段階負担を応能と言い換えるだけで、応益負担を廃止するものではありません。

 これらの不可解な動きに抗議声明を発表します。



障害者自立支援法訴訟の基本合意の完全実現をめざす会

障害者自立支援法訴訟全国弁護団

弁護団事務局

℡03(5297)6101

犬の散歩でT緑地へ

久しぶりに犬の散歩のためにT緑地公園へ、家族連れや犬の散歩に来ている人などたくさんの人が公園に来ています。こちらは、いつものコースを歩いて散歩は終わり、人が少なければもう少しいるのですが、こう人が多いと早く帰りたくなります。犬の方はまだ居たいようですが、無理に連れて帰りました。
近くに広い公園があるので、環境的には恵まれていると思いますが、休みの日は人が多いので行くのも嫌になります。金曜日は、平日なので比較的人が少なく、長時間いることもあります。
バーベキュー広場(11月~3月までは休園)もあります。炭焼きのテーブルは無料です。年に何回かは利用させていただいています。たまに外で食べるのもいいものです。電気式のテーブルは2時間2000円かかります。炭で焼く方がおいしいと感じます。

昨夜は、I氏と他の人たちと交流会

昨日は、送迎を終え京橋にて、I氏と他の人を交えての交流会を行いました。介護に関する人たちが集まり日頃の介護の話に花が咲きました。私の両親はすでに亡くなっているので、介護についての苦労はあまりしませんでしたが、今、介護をしている人たちは、心身とも疲れているそうである。
妻は岡山へ職員旅行に出かけています。牛窓というところに出かけています。子どもたちもアルバイトや友達の家に行ったりしていて、今は私一人でPCに向かってブログを書いている。

K物センターの送迎をしている、O賀さんが身内に不幸があり、月、火と送迎ができないという連絡が入ったそうである。Tさんと私で交代で送迎することになる。ただ、私は23日は昼間に用事を入れているので、夕方のみの送迎になる。月はTさんが送迎をし、火曜日の朝はTさんが送迎をする。夕方は私が送迎することになる。Tさんには無理なお願いばかりしています。

O賀さんが車の中で、私の妻の事に関して良くしゃべる人だと言っていた、O賀さんと妻は面識もなければ会ったこともないのによく、そんな話をするものだと思ってしまう。また、ガソリンを入れていない場合もよく文句を言っているとO井さんが話してくれる。運転も雑で急ブレーキをよくするそうで怖くて乗っていられないとO井さんがまた、話をしてくれる。利用者がうるさいとうるさいと文句も言ったりしているので、運転する人を変えてほしいとも言ったりしている。Tさんや私などは雑な運転をしないので安心して乗ってられると言ってくれる。
O賀さんよ土曜日も送迎しろよ!他の人のことも考えて仕事をしてほしいと思います。

2010年11月19日金曜日

季節性インフルエンザにかかる

11月13日(土)に仕事が終わり、帰りのバスの中で急に悪寒が走りました。(昼間は特に何の症状もなかったのですが。)電車の中でも、悪寒が激しくなり風邪かなぁと思いましたが、急に熱が出たので、ただの風邪ではないなぁと感じました。家に帰り検温すると、なんと39.4℃の熱があり、頓服2錠を服用し、そのまま布団に潜り込みましたが、寒くて毛布を出し、寝ましたが。汗と夢にうなされてながら、睡眠しましたが、身体が宙に浮いた感じでした。朝、検温すると37.8℃まで下がっていたが、たぶん頓服が効いたのだと思います。とりあえず「おかゆ」をいただき、市販の風邪薬を服用し再び布団の中へ、夕方に検温するとまた、39℃まで熱が上がっていいました。身体はフラフラの状態で、月曜日には医者に行き診てもらう事にしました。病院に行き症状を報告し、季節性のインフルエンザだと診断され、栄養剤を打ってもらい、薬も頂、早速服用し布団に入りました。
本当に急に悪寒が走り、インフルエンザにかかった分けですが、どこで感染したかはわかりませんが、皆さんも気をつけて下さい。
香港では、毒性の強い鳥インフルエンザ(H5N1)に感染された方がいると報道されています。日本にも毒性の強い鳥インフルエンザが上陸するのは、時間の問題だと思います。予防接種をして、少しでも症状が軽くなるようにしなければなりません。

次男の内定書が施設より届きました。本人も喜んでいました。時期を見て、20歳と就職祝いをしなければなりません。

自立支援法、延命の動き

新聞報道によると。
自立支援法、延命の動き  政府が委員会審議抜き採決を狙う(抜粋)
政府・民主党内で、障害者自立支援法の「延命」につながる法案が17日、衆院厚生労働委員会で、審議抜きで採決さえる動きが出ています。
同法案は、前回の通常国会に提出され、衆議院では、民主、自民、公明などの各党の賛成で可決障害者らの批判の声の高まりの中、参議院でも可決されましたが、本会議が開かれず閉会したため廃案となりました。
同法案を巡って、障害者や家族らから「あくまでも私たちは新法を願っている」と言った批判の声があがっています。
民主党は政権交代後、自立支援法の廃止を明言。現在、政府内に設置した障害者制度改革推進会議や総合福祉部会では、障害者や家族が参加し、廃止後の新法制定に向けて議論している。
障害者団体は10月29日「10・29全国大フォーラム」を開催。自立支援法が廃止され、当事者の声が十分反映された新法の実現と同時に「緊急課題」について、新法を待たずに予算措置の中で具体化すべき事などを確認しました。
民主党は、一度は廃止を明言しているにもかかわらず、障害者自立支援法の延命に動き出しています。公約の実現と新法の早期成立や今の現状を緊急に改善する、予算措置などを行うことが、今求められています。

2010年11月12日金曜日

Iさんの入所記録

Sホームに入寮された人の経過記録です。Iさんは知的障害であることが分かり、最終的にはグループホームに入所されました。プライバシー保護のため名前はローマ字で書いています。

09年2/10、入所面接に来る。
▼2/27日にセルスの会社に面接に行かれる。
▼Sバンクより携帯電話の請求書が送られてくる。金額は28万円ほど。携帯を借りるとき友人も含めて3台契約したとのこと。今は回線は切られているが、昔使った分が請求として送られて来ている。
▼28日に会社の面接に行かれる。
▼昨夜はN村さんの相談会に来ていただく、、医者に職務経歴書を提出する。Tの生活相談所にも相談をする。
▼K病院は当面は診察を受ける。精神的に追い込まれ自殺も考えたことがあり、リストカット2回もしている。居宅や仕事についてはやる気がない。年の割には苦労をしている。交通刑務所や刑務所にも入る。神経質で根はまじめ過ぎる方である。花粉症で医者にかかっている重症の花粉症である。一年中花粉症に悩まされている。携帯の料金の滞納もある。ヘルニアと心療内科、言語障害もあり体を治すことが先決な事柄と思われる。居宅への希望は強く持っている。心療内科で医者の診断書をいただけるようにする。
▼J支援センターで自転車屋のアルバイトへ行ったこともあるが、そこの店主と喧嘩をし首になる。交通事故だけで16回起こしている。
▼ホームレスの時はアルミ缶ひらいをして生計を立てていた。精神科の意見書を書いてもらうようにする。アレルギーについても一度検査をしてもらうようにする。N野さんと相談をして、一度心療内科に行き医者に助言をしていただけるようにしてもらう。
▼K病院へ3/13日に診察に行く予定であったが、安定剤を8錠服用しフラフラな状態になる。K病院は再度予約を入れる。
▼K病院に診察に行く。診察の結果、MRIの写真は特に問題はなく、知的判定の結果、中・軽度の知的障害であるといわれる。一般就労は難しい。医者の意見書を書いてもらう事は可能。4/3日脳波の検査の予約をして帰る。眠剤を頂く。(N野、大久保、Iさん)
▼N区のCWさんに連絡を入れる。知的障害である旨伝える。生活保護から障害のCWさんに引き継いでもらうよう手配するようにする。4/3日にK病院の精神科を受診し、医者の意見書を書いてもらい、療育手帳の申請をするようにする。Kされん京都支部にも連絡を入れる。グループホームのようなところで生活が可能ならCWさんとも相談しなが進める。
N区の役所に行く。Iさんの診断書を提示する。CWさんは発達障害かと思っていたようである。療育手帳の申請をするが、住民票があるところでないといけないので、K区からM区に住民票を移動する。
▼今後の進路について、N野さんと話をする。療育手帳の申請、住居等について、出来ればグループホームで生活するように進める。金銭管理が出来ないようである。
▼M区の役所に行かれる。発達判定の書類を出しに行く。2ヶ月ほど先になるとの事。療育手帳の申請もその後になる。判定時は職員も同伴する。
▼K病院に通院する。午後1時半予約。
▼M区の障害福祉から発達判定の日程の連絡があり、5/29日(金)午後1時半か6/5(金)午前9時のどちらかになる。O市いるお姉さんの都合に合わせて日程を決める。お姉さんに発達判定に付き添ってもらう。半日程度はかかる。
▼M区のO松さんより電話があり、Iさんの発達判定日は5/29日午後1時より行う。お姉さんが付き添ってくれる事になる。発達相談所にて。
▼K市の発達相談所に行く。午後1時より、実姉が同伴してくれる。
▼お姉さんより電話が入り、6月3日の水曜日にSホームに来所されることになる。
▼療育手帳が交付される。
▼明日、お姉さんが来て今後について話をする。
▼6/4日お姉さんが午後2時に来所される。今後について話し合いをし、グループホーム的なところで生活をした方がいいのではないかと話をする。お姉さんの了解を頂く。
▼6/7日、兄姉で両親の墓参りに行かれる。お兄さんも一緒に行かれる。
その後は、グループホームに入所されました。私がSホームを辞めてからも携帯に電話があり、私のことを吉田松陰みたいな人やと言ってくれました。また、携帯に元気にやっているという電話が入るかもしれません。元気でグループホームでの生活をやっていることを祈るばかりです。

Sホーム時代の思い出

今から約3年前、k市のN村さんの紹介でSホームに就職しました。Z法人を辞めてハローワーク通いをしていた時、声がかかりSホームの寮長として行くことになりました。
Sホームは定員12名ですべての方が、ホームレスの人たちでアルミ缶を集めて生計を立てていた人ばかりです。ホームレスの人たちが市役所に行き、救済をお願いすると、K市は一時保護施設へ入所させ、就職の斡旋や治療などを施し、そこから自立していく人もいますが、ほとんどの人たちはSホームへ来ることになります。私が在籍していた時、部屋が空くことは一度もありませんでした。中にはK市の旅館で働いていて、同僚の給与をねこばばし、そのまま旅館を飛び出しホームレスになった人もいたり、暴力団の人もいました。全身入れ墨をいれ夏場でも長袖を着ていました。
就職した年末には、定員を12から15名に引き上げ、多くの人を受けられるようにしましたが、すぐに部屋は定員一杯になりました。年末にはK市の河川敷の橋の下でホームレス生活をしている人の訪問活動や石鹸、ホカロン、お餅などを配って歩いたりもしました。
K市の各区役所からの問い合わせは、毎日ありいつ部屋が空くかという問い合わせで、今のところ部屋が空くことはありませんという返事をしていました。
このSホームの費用は、入寮者の人たちが受給している、生活保護費から必要な費用をいただくのですが、11.5万円もの費用がかかります。保護費は12.5万円なので、ほとんどがSホームの利用料に消えてなくなります。たばこ代に消えてなくなる程度しか所持金はないことになります。
3食は保障されているのですが、たまには違うものを食べたいと思うのは、当たり前のことですが、それを買うことも困難な状況も生まれます。
保護費をいただきに区役所に行くと、本人が受け取ることになるのですが、頂いたその場で、私たちの目を盗みそのまま逃亡してしまう人もいました。その時だけは、唖然としてしまいました。
中には、真面目にハローワーク通いをされ、警備会社やバス会社の清掃の仕事に就かれたりと努力をしている人もいました。
入所者の中には、知的障害者、統合失調症、人格障害などの人たちの入所が増えてきては、病院の手配や付き添ったりしたものです。
Sホームには10ヶ月ほど在籍しました。そこを辞める理由の一つは貧困ビジネスがマスコミで報道され、私も自分のやっている仕事が貧困ビジネスではないかと思うようになり、何度か悩んだり、N村さんとも相談したりしたりしましたが、結果的には辞めることを選択してしまいました。
今は、Sホームのはどうなっているのかは知りませんが、きっと満室の状態が続いているのではないかと思います。

S施設へ入寮された方の手記-2

私がk市にあるSホームの施設長をしていた時に、入寮された方の手記の№2です。

電灯の明るさに気持ちも晴れやか、初めて眠る布団の暖かさ、我に返り、昔の我が家の家族の顔を思い出した。約3年前に、家庭は「崩壊」してしまった。悔しさと子どもにかけた、すまない気持ちとで「涙」が出てきた。
 自分の起こした苦しさと、どうにもならない現状を情けなく思う。福祉の職員の方の力を頂きありがたく感謝の心で一杯です。
今日は、朝からSホームの近所のJリハビリテーション病院に、3年ぶりの診察で、病院でレントゲン、視力、尿など、少し不安もあったが、今のところ体の異常はなく、お尻に「出来物」が2つあるぐらいで、生活する上では心配いらない。
両親から頂いた体、61歳まで健康体で過ごさせていただいている事に深く感謝しています。明日は、H山に出向いてお墓参りをさせていただきます。(O谷祖廟分骨で永代供養)
大谷祖廟、両親の眠るお墓が設置してある。H山、Y神社へ、高台まで静かな山の高台である。「永代供養」をさせていただいているので、現在はE前市Y養寺の団家である。お墓の前で線香をさせていただき、手を合わせると両親の顔を思い出して涙が出てきた。今、我が家の家庭愛を無くした辛さと、子どもにすまない気持ちで一杯で情けない自分を感じました。
帰りに坂本龍馬、中岡慎太郎氏などの銅像を観て、彼等は「日本の近代化」の誓いを立てていたに違いない晴れ姿に見えた。
私自身も年齢61歳、日々、自分を生かして人生を過ごしたい。自分の前には日々変わりゆく時が流れている。
今日も心華寺、研修道場長時代の著者「自分を生かさないで、何の人生か」を開いて読書させていただきました。今日も一日感謝の気持ちをわすれずに、ありがとうございました。
朝、5時40分に目が覚めた。子どもの姿が脳裏をよぎる。父親らしい事を何もしてやれなかった、自分を「顧みる」姿勢がまだ自分の心のあらわれる、自分の過去が空しく思う。ぼんやりと机の壁の正面を見て、何も感じない無然な1日だったのかな。自分が愚か者かもしれない、駄目な親父である・・・情けないなぁ。
3年ぶりにホームから近鉄電車でK市駅まで車窓から「眺める」というより、いろいろ人間模様。社会の中で行動しているんだと、私もN本願寺に手を合わせ、心の安らぎを求める。人生とは何の為に生きていくのか、目標をしっかりと持って、自分の価値観で生き抜く事を学ぶ次第である。
朝からJリハビリテーション病院へ、9時過ぎに到着。十人十色というけれど、患者の8割は年配の方に見えた。人間年を取ると動作も緩慢になり、鈍くなるものである。介護を必要とする人や、車いすの方など病気になると覇気が無くなり弱々しいものだ。
待合室のテレビに国会審議が放映されていた。呼び出しの間、テレビを観ていると、不景気で派遣切りの労働者、生活資金等々、内閣総理大臣の支持率まで落ち込んでいる。近況、暗いトンネルから少しずつ明かりが見えそうな春であって欲しいものだ。病院の職員、看護士、ウイルスに負けないように対応を取っている状態。一寸先は闇、我が身の体も支持率ゼロにならないように頑張りたいものだ。
午後から散髪後、面接に。外部からの社会奉仕に活動してくれる人が訪問してくれました。散髪のハサミを入れてもらった時、少しは社会人になれるかなと、喜び半分、今まで自己流でやっていた(約3年間)から、散った髪も、白髪交じりで、これからは白でいい黒にはなりたくない、平凡な道を歩けるように進みたいものだ。
ケースワーカーの面接や女性の相談員の人も初めてで、色々な分野で活動している姿に「娘」の思いが重なり感無量でした。
早朝からN本願寺に参りに行き、足を運ぶ事3時間余り。色々な景色、人の姿、バス、電車、バイク、自転車、その他目に映ったものが思い出される。境内のお堂の中の何体もの仏様の顔が怒って指図しているように見えました。昼からは区役所に寄って返ってきたが、今日は一日平凡な日であった。
新聞を読んで、東京、横浜等では、憲法反対のでも、片方は賛成のデモと。私ながら感じ入るところは、昭和18年~21年ぐらいが戦争という、血肉の果てに領土の奪い合い、化学兵器と称して、原爆投下と人間魚雷から原子力(核兵器)と。
江戸末期から幕末からは、想像も出来ない、スピードの近代化政策であった。戦後の日本の高度経済成長である。今日の源も、戦争に召集礼状で呼び出された、十代の若者達、日本の国を守るために勇敢に、国を思えばこそ、無惨な死に至る。血肉分けたる写真など無くなって欲しい。今の日本の姿も、例えば、沖縄を出発して北海道宗谷岬までの航海に出た。海に漂う波間に浮き沈みして、目的地の設定もないまま、航海している姿に見えた。
麻生内閣の支持率も最低に、日本の国は行くすえ定かでない、定額給付金、暗闇の航路先は濃霧警報中の突進で不安定な船である。
ある著者の豊田佐吉(トヨタ自動車創始者)の「自分のやった事は、まだやる事の1/100に過ぎない」と思ったそうだが、今は派遣切り、労働者(非・正)勤労者までもが、不安の世の中に生活安定を求めている。
アメリカの成功者、トム・モナハン(ピザショップ)は言っています。DO.IT.NOW(今すぐにやれ)。
麻生日本丸も波間に傾き掛けた船を、何とか正常に戻そうと踏ん張っているが、その足を引っ張る大臣が存在する。日本の大臣たる者、公務で海外に行き、二日酔いで日本の恥をさらすようでは、大臣の資格はないといわなければならないだろう。
日本経済のこの不景気の最中に大臣を兼任するような政治状況では、まだまだ暗くトンネルの中を入ったまま、明かりが見えてこない。国民も黙ってていいのか、呆れてみているだけでは駄目である。何事に於いても、国民の願いであればその方向に政治の舵を切り替えなければならないのだが、早く解散総選挙を行い国民の真を問わなければ混迷の日本国になりかねない。政権が変われば文殊の知恵が浮かぶかもしれない。
国民も頑張る、国も頑張る、日本の不景気から明かりが一日も早く訪れる事を願わずにいられない。
読書に時間を使った。朝の日課にしている3時間のジョギング、T寺~N本願寺の往復と、今日は日祭日明けで、マスク姿、通勤者またはバスから降りる人もマスク姿で鞄を持参している、いつもの光景である。交通網も車、バス、自転車、バイク、タクシー等々みんな目的地である職場について仕事に頑張る事であろう。
何事も行動するにも体力、健康が一番、今日を生かされている事に感謝せねばならない。また家の事を願って両手を合わせ帰り道。
ハローワークに仕事の検索に行きました。61歳の年齢と仕事を探しに、パソコンサイトを見ましたが、面接までには至りませんでした。自立の姿がそこに見えたけれども、今後に生かし、掲示板の張り紙なども見て来ました。昔は職業安定所、今はハローワークと年寄りには何の事かさっぱり分かりません。状況も未だ「春眠暁を覚えず」不景気で、混迷する世界経済の中、耐えて耐えて我慢の日々です。
今日初めて高齢者会館へ、、炊きだし実施されるとのことで、初参加させていただきました。京都市のこの場所で集まって、来た人達のほとんどがホームレスで生活したり、車の中で、路上で生活したりと、中には別の人もいるかもしれませんが。
健康で、貧しくても、リサイクル(空き缶、金属等々)で生活し、雨風をしのいでいる者にとって、心の支えになりました。衣類などの提供もいただき感謝の念に耐えません。出来るだけ早く自立できるように自分を戒める。自分の心の向上を図って、日々の不満、若しくは愚痴、社会に対する敵対感を捨て、自分は何が出来るのか考えさせられた一日でした。感謝、感謝です。
朝の読売新聞を読んで、アメリカのヒラリー国務長官が就任後、最初に日本を訪問されるとありました。今、自動車産業は不況の大波をかぶり全世界を巻き込んでいます。それに輪を掛けるように派遣者社員のリストラ、契約打ち切りと、とどまるところではありません。今だ日本の景気の上昇は目に見えず、起爆剤としての給付金もどのような経済効果があるか、疑問視される識者もいるとお聞きしています。
昼過ぎに、読売新聞に出ていた学校歴史博物館に歩みを運びました。25年から50年の写真を見て、少年の頃を思い出しました。漫画雑誌では、冒険王、少年画報、女の子には「なかよし」など一冊。この本では赤同鈴の助、矢車剣、鉄人28号など、今覚えば、天才バカボンの赤塚不二夫さん、遠藤周作さん、横山光輝さんなど苦労して一流になった人ばかり、昔の職人気質そのものが生活する為にはそれぞれの道で成功された。
今思えば、田舎の豆電球の中で育った若者が志し果たして、いつか帰る、その夢は希望と青春の晴れ姿だったかもしれません。
学校運営そのもの自体、団塊の時代の我々も、もう61歳、「幾月は人を待たず過ぎたるわ、我に帰らん」。今書き記していると、昔の少年時代の恋愛は好きだけど言葉に言えず、手をつないで帰ろう者なら厳しく怒られた時代。今思えば卒業式の時くらいは、手を握って帰りたかった。
その時代の映画スターでは、大川橋蔵、中村金之助、千原しのぶ、日活では小林旭、石原裕次郎等々、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の御三家等。NHKのゼスチャー柳家金五郎、水ノ江滝子。朝日放送のてなもんや三度笠、白木みのる、藤田まことなどなど。白黒テレビ時代の、プロレスの力道山、相撲の栃錦、若乃花。プロ野球の長島、王、星野・・・等々の有名野球選手、巨人:南海、巨人:西鉄戦は忘れません。
この間も張本さんが新聞で言っていました。契約金を新聞紙に包んで兄と二人で列車に乗って帰ったと言いましたが、今の時代も何千万、何億とお金が動く時代、プロになった以上、格言通り、「虎は死しても、皮は残す」一世を風びするスターが、子ども達に夢を与える時代、石川遼、ゴルフのように十代でもやれる、彼の親は立派であると思う。この子ありて親思う。何事も目標が出来れば、それに向かって邁進する、挫折をしない、余分な事は考えない。
強い意志を持って頑張りたいものだ、20年から50年の歩み皆それぞれ、夢も希望も青春も辛酸な青春時代を思い出した一時でした。
夕方から、F見のハローワークに行く。ハローワークに取り付けてある閲覧求人募集は、年齢制限あるいは、通勤と住み込みパート、ガードマン、ホテル、病院等の掃除等、それぞれも数が少なく、時代の流れか若年層採用優先が多く。高齢者には辛い閲覧だった。

次男の就職が内定する、長男の状況

U学園の就職が内定しました。電話では、内定の連絡がありましたが、正式な内定の書類が送られてこないので、少し心配しましたが、理事会の承認もおり近々正式な書類が送られて来るとのこと、
U学園の施設長さんは次男の担任の教授の教え子だと言うことも分かり、不思議な巡り合わせだと思いました。ヤレヤレ…です。前にも書いたとおり、1~2年ぐらいは寮生活をするようです。大阪市内なので、休みの日には、帰ってくることもできるので、一人前になるように頑張ってほしいと思います。本人は20歳の祝いと就職祝いをしてくれと言ったりしていますが、いろいろな人がU学園の施設長さんに頼んだとも知らずに、困ったものですがこれは本人には内緒にしておかなければ、なりません。まぁ、20歳と就職祝いをしてあげることにします。
次男は、大阪市立大学医学部付属病院へ肩の脱臼の診察に出かけています。来年の2月には手術をしなければならないことになっています。8月に右肩を手術したのでその状態も確認するのではないかと思います。
長男の方も、岡山のK氏の紹介で、NPO法人格を取得している作業所の後継者として、来てくれないかという話があり、本人に話をする。詳しいことは、本人に直接問い合わせさせたり、現地に行き実際の作業所を見てくるように、言うつもりです。最終的には本人が決めることなので、それ以上は何も言うことはしません。断ることも、受けることも本人が決めることなので、無理に言っても長続きしなければ何もなりません。
岡山の仕事を断れば、社会福祉の学校に行ってほしいと思っています。年齢も21歳なので、2年間もう一度勉強して、社会福祉の仕事をしてほしいと考えています。介護福祉士を資格を取得するようにも言うつもりです。まだ、親は現役の仕事をしていることだし、奨学金も利用することもできるので、行ってほしいと思っています。就職先も学校の方で斡旋してくれるみたいです。夜はアルバイトでもして小遣い稼ぎをすればいいことだし、若いと言うことは、いろいろな可能性が実現できるので将来を見通してほしいと思います。
岡山ならバスや電車などを利用しても大阪まで2時間もあれば、帰阪することはできるので、そんなに遠いところではないと思います。岡山には妻の兄の子どもが岡山市役所に勤務しています。親戚もいるので、何かあれば相談する人もいるので、心強いと思うのですが。
2人の子どもがこの家からいなくなるとなれば、夫婦と犬2匹の生活になります。少し寂しい気もします。共働きなので、夫婦と言ってもすれ違いの生活になります。変則勤務なので仕方ないことですが。

2010年11月10日水曜日

月に一度の職員会議

今日は、私の所属する作業所の職員会議がありました。レジュメはいつも同じ項目のレジュメです。情勢の話はなし(そんな事はないだろう?)。世の中は激しく動いているのに、特に障害者関係は10/29集会があり、きょうされんの全国大会もあり、そこでの基調報告もあるので、障害者を取り巻く情勢はいくらでもあるのにと、心の中で叫びましたが、施設長の顔を潰すのもはばかるので、ここはじっと我慢の態度。
講師にDの里の施設長が来られていて、報告・連絡・相談についての話を約1時間程されました。会社なら当たり前の事が、施設では出来ていないようである。ある事業を請け負えば、上司と部下との報告・連絡・相談は当たり前の事で、そのやりとりを通して仕事がうまくいくのだが、それが出来ていないようである。
後は、安全確保についての話など、マニュアル通りの話をしていましたが、マニュアルみたいに事が進めば言う事はないのだが、マニアルにないことが起こればどうするのかは、経験と自己判断でするしかないのではないかと思う。別にマニュアル否定はしないが、マニュアルにないことが起これば対処のしようがない。そこが、問題である。想定外の事が起こる事は起こりうる事である。全てマニュアル通りには事は進まないと私は思っている。事実、阪神淡路大震災の場合は、大災害時の時のマニュアルはあっても、マニュアルどうりに人命を救う事は出来なかった。
K物センターの◯藤さんは11月20日をもって、戦力外通告になった。22日からは新たなメンバー3名がK物センターに実習として来られることが決まる。K物センターの事は、H先生の了解がなければ前に進まないようである。
ここの作業所は、女性が強く、男性はしょんぼりとしている。見ていて何かしら情けなくなってきてしまいました。男よ頑張って発言をして欲しいと思う。
施設長は私に対しては、言葉遣いが違う、すごく丁寧に聞いてくるので違和感を覚えてしまう。他の職員に対する言葉と、違う言葉遣いである。やはり、H先生の直轄で入ったためかと、ふと考えてしまう。

2010年11月9日火曜日

長男の就職について

先日の土曜日にお会いした。K氏に長男の就職の話をしたところ、岡山で無認可作業所の後継者として来てくれないかという電話がありました。初任給は短大卒か四大卒の初任給は出るという話でした。早速長男に話をすると、今年度は今の仕事があるので無理だが、新年度になれば…という返事でした。今日は、有給やボーナスが出れば行っても言いと言う事を言っていました。
K氏に詳しい事を聞いて息子に話をしてみたいと思います。

2010年11月7日日曜日

今日は一日家の中で

昨夜のレセプションで飲み過ぎたため、朝もゆっくり起き、朝食と昼食を兼ねた食事を頂きました。二日酔いは久しぶりです。レセプションではあまり食べる事も出来なく、ビールや焼酎を頂き、これでは二日酔いになるのは当たり前です。遅刻したので食べる時間がなく飲んでばかりではいけません。二次会も参加する。50名ぐらいの方が参加したのではないかと思います。そこでもビールを飲み、あて程度の物ばかりで、これではいけません。帰りは最終電車になりました。
I氏も幹事として忙しそうに動き回っていて、あまり話をする事も出来ませんでした。

福保労60周年に参加

昨夜は、福保労60周年レセプションに遅刻して参加しました。K物センターの仕事が18時25分まで残業になり、急いでバスと京阪と地下鉄に乗り継ぎ、大阪府社会福祉会館へ行きました。会場には入ったときはすでに、レセプションも後半になっていて、とりあえずビールを飲みのどを潤した。
会場には、H先生や岡山から来ているK氏など日頃お世話になっている人たちが参加していました。その他にも私が大阪市内支部のの副委員長をしていた時の、人たちも参加していて懐かしさを覚えました。
H先生とも話をし、私がいつまでK物センターにいるのかという話をしました。T郷も虐待問題でまだ、ゴタゴタしている時で年内には何とか片がつくのではないかと話をされていました。今はT郷の理事長に就任しているとのこと。前理事長が退任し、その後をH先生が理事長に就任したとのことである。
K物センターの方の体制も考えなければならないと言っていました。私は来年の3月末までは、行ってもらうことになるという事みたいです。
T郷のが落ち着けば、もう少し早くなるかもしれないとも言っておられました。N法人やK法人の方の合併や、K物センターの件も手を入れなければならないとも言っていました。
H先生も福保労(旧日社労組)の委員長をされていて、委員長のインタビューを冊子から抜粋させていただきます。
「私は、1977年に日社労組の委員長になる前に、総評全国一般大阪地連のオルグをしていました。この時、日社労組も担当しており、「鶴野闘争」も受け持ちました。
当時は、「社会福祉事業の職場に組合があるのはおかしい」という考えが強く、保育用具を要求したら「解雇」ということになり、法廷闘争に入りましたが、鶴野さんも病気になり、結審は「和解」となりました。
全国一般の専従を辞めた時は、S学園から要請の話があり、S作業所の責任者などをしていました。委員長になったのは、第二次黒田革新府政時代の頃で、公私間格差是正が大阪府・大阪市しで実現されて、全国的に革新自治体の作りの動きがあった頃です。組合の要求も前進をみせていました。
大阪支部としての闘いでは、大きなものとしてポニーランド保育園の闘いがありましたが、委員長としての行動は、日社職組の中央本部段階の行動が重きをしめていました。
社会事業のみではなく、保育も含めて組合を作ろうという時期で、東京、名古屋、京都と全国的に要求が高まっていました。大阪は両者が合体してできていましたが、全国的にはそうではなくこの運動のために、よく上京していました。
S学園で、都築常務理事の時、常務から話が出され2~3の運動に係わりました。
一つは、S愛育館の時で、働いている者を軸にした映画作りで、「明るい明日」の映画作りに係わりました。
二つ目は、S協との係わりで、今のP協です。昭和6年に出された「日本消費者連盟」の本の学習から始まり、S協と都島医療生協が合併しました。次にS市民生協、K市民生協、M市民生協が合併して、今のP協となったのです。
三つ目は、S学園の福祉まつりとの係わりで、大きなまつりを参考にして、福祉まつりに取り組みました。異なる職種の職員が、まつりを通じて団結すると言うことを目的におき、平和、福祉が共通している団体に呼びかけ、初めは少なかった参加者が、多い時は7000人から8000人まで伸びました。
最後に、今の福祉職場の現状をみると、構造改革の影響を受け、現代は社会福祉といえる基盤が弱くなっているのではないかと、制度が抜けて福祉が一人歩きをしているように感じます。もう一度、公的責任である福祉が見直されるべきではないかと思います。」というメッセイジを書いておられます。
岡山のK氏にもお会いし、ベトナムの話に花が咲きました。また、一緒に行こうと言うことも言っていただき、今度は、ハノイから電車でホーチミンに行くことを話をすると、それもいいなぁと言っていただきました。息子の就職の件も、お願いしM医連の事務局の職員の募集があれば、是非お願いしますと言っておきました。
今日は久しぶりに二日酔い気味です。

2010年11月5日金曜日

ぼちぼち、やろかの参加者

このブログを見てくれている人は、日本、アメリカ合衆国、オーストラリア、マレーシアという国からアクセスがあります。あまり変な事は書けないなぁと思ってしまいます。しかし、私の感じた事や思いは表現の自由がある限り、気ままに書いていきます。人の誹謗中傷はしませんが、問題の提起はしていくつもりです。沢山の人に読んでもらえるブログになればいいな~と思っていますが、なかなかそこまで行くには道のりは遠いです。メジャーなブログになると企業がCMを掲載して広告料がいただけるそうですが、そこまでは考えていませんが。そういう風になればいいなぁと少なからず思ったりしています。
この間、液晶テレビを2台もJTに注文してしまいました。妻がどうしても欲しいというので、妻のボーナス払いで買う事にしました。20万弱の金額になりますが、妻が払うのでいいかと人ごとのように注文してしまいました。
今日も一日PCの前でブログを書いてしまいました。尖閣諸島の衝突ビデオがYouTubeに流されました。ニュースでも取り上げられ、見た人も多いと思います。ビデオを見れば明らかに中国漁船が挑発的な行動が目につき意図的に海保庁の船にぶつかってきているのが分りました。本当にどうしようもない国ですね。YouTubeは中国でも流されているそうですが、NHKのニュースの取材で中国の国民は日本の船が挑発したと言う人や尖閣諸島は中国の領土で日本が領海を犯しているというインタビューがテレビで放送されているんを聴き、本当にどうしようもない国だと改めて強く思いました。言論の自由がない国では、政府の流す情報に左右されてしまうのかも知れません。一党独裁の国は本当に駄目ですね。あれだけの経済成長を続けている国なのに、民主主義の面では三流国並みです。ノーベル賞を中国の人が受賞したのも、中国政府はノルウェーの国を批判していますが、ノーベル賞を決めるのはノーベル委員会です。一党独裁を批判しただけで刑務所に入れられれば、そこの国の国民は、自由にものが言えない状況に置かれているのが異常ではないかいと思います。
日本は堂々と尖閣諸島は日本の固有の領土であると主張をしていかないと、中国になめられてしまいます。

10/29集会の開催

障害者自立支援法の廃止と新たな障害者総合福祉法の制定に向けた、集会が10月29日に日比谷公園で開催されました。私も前の職場ではきょうされん(旧全国共同作業所連絡会)の大阪市内ブロックのブロック長をやっていた関係で、何度か10/29集会へは参加してきました。今年も1万人を越える障害者・職員・家族・関係者が集い、障害者自立支援法の廃止を訴えた集会がもたれました。障害者自立支援法の早期の廃止と新法の成立を目指さなければなりません。

1万人超の障害関係者が自立支援法の廃止

新法づくりを確かなものに

今が大事な時期・・・幅広い運動と共同を大切に

◆日本障害者協議会などは10月29日、東京の日比谷公園で、障害者自立支援法の廃止と、同法に代わる「障害者総合福祉法」(仮称)などの新法制定を訴える「10.29全国大フォーラム」を開催した。会場には、全国から1万人を超える障害関係者が集まった。

◆集会への連帯あいさつで、湯浅誠氏が「この間の運動への深い敬意と立場を超えて結びついていこう」と述べた。
また、障がい者制度推進会議の担当室長(東俊裕氏)が「大きなうねりをつくりだしていくことが私たちの社会を変える大きな力になる」と激励のあいさつをした。
さらに、厚生労働省の岡本充功政務官があいさつ、2013年8月までの「障害者総合福祉法」(仮称)施行をめざすことが閣議決定されたことに触れ、「(障害関係者への)透明性と公平性のある安定した施策に向けて、一歩一歩だが確実に進めていく」と述べた。

◆民主党政策調査会「障がい者政策プロジェクトチーム」の谷博之座長は、障害者自立支援法で医療費の自己負担上限額が設定されている自立支援医療について、「非課税低所得者の無料化を求める声が届いている。来年度の予算獲得に努力したい」との意気込みを示した。このほか、社民党や共産党などの国会議員も参加し、障害者自立支援法の廃止を訴えた。

◆障害者基本法の改正案などについて議論している内閣府の「障がい者制度改革推進会議」の藤井克徳議長代理は、前通常国会で廃案になった障害者自立支援法の改正案に触れ、「今開かれている臨時国会で提出されないという話はない。提出されて成立すれば、障害者自立支援法の根を残す可能性もある」と懸念を示し、「今が大事な時期だ」と強調した。

 また、障害者の立場からは8団体が、それぞれの障害にかかわる問題を訴えた。その後、参加者は2組に分かれ、国会議事堂や東京駅周辺などを約1時間半かけてデモ行進した。
障害者自立支援法の廃止と新たな障害者総合福祉法の制定に向けた、取り組みの強化が求められるのではないかと思います。

(キャリアブレインより抜粋 )

昨夜はI氏と飲み会

昨夜はI氏より、飲み会の誘いのメールが入り、京橋にて飲み会をする。I氏は会議がないときは、必ずと言っていいほど、私と飲みに行く。私の相談相手にもなっているので、私にとっては欠かせない人である。また、いろいろな情報も提供してくれるので、ありがたい存在でもある。
I氏の母親は、94歳と高齢で、認知も進んでいる状態である。3年前に会ったときは、自力で歩き、三宮あたりで一緒に食事をとったりしたものであるが、今は車いす生活である。私の名前も覚えていないようで、通称、彦左衛門と言っている。I氏も母親の介護をしながら、仕事を続けているので大変であると本人も言っている。
明日は、福保労60周年レセプションが開催される。もちろん私も参加する。岡山からもK氏も参加するとのことなので、長男の就職の話をするつもりである。また、H先生も参加するので、私がいつまでK物センターで働くのか聞いてみるつもりである。K物センターに来るときの話では、1年か2年は行ってもらう予定であると言っていた。いつまでもK物センターで働かせるつもりはないとも言っていたので、この機会に聞いてみるつもりである。次は何をするのかも不明なので、それもついでに聞いてみるつもりである。
一緒に仕事をしている職員さんやパートの人たちとも親しくなり、飲みに行ったり、食事会もしたりしている。仮に、S協同就業支援センターを離れるとなると、少し寂しい気もします。
もう一人の職員さんも、ずっと一緒にやりましょうや、と言ったくれたりしている。法人も2つの法人から合併して、一法人になる予定だと聞いている、今後いろいろな事業を展開すると言っているので、私がそのお役に立てるかどうかはわかりませんが、無理を言って採用してくれたご恩には報いなければならないと思っている。I氏も来年4月には、定年退職なので彼も来てくれないかと、打診はしているがH先生の了解と財政的な面がクリアー出来ればほしい人材である。

2010年11月3日水曜日

今日も一日終わり

休みの日には、ブログを書くことが習慣になってきています。平日は飲みに行ったりしているので、ブログの更新がなかなか出来ない状況なので、休みの日に書くことになります。夕方は少し用事があり出かけましたが、帰宅してからブログを書いています。このブログは世界中の人が見ているようで、アメリカ、オーストラリア、日本と各国で読まれているみたいです。徒然に思いを書いているので、特にテーマを決めて書いているわけではないのですが、世界の人が見ていることに、インターネットが個人の思いを世界に発信する手軽なものだと改めて痛感しました。世界中の人が読んでもらえるようなブログを今後も書いていきたいと思います。(ブログの編集のところにどこの国の人が読んだかの統計が出ます。)

デジカメを持参し

私の鞄には、いつもデジカメを持参して仕事に行ったり、歩いたりしています。小さなデジカメなのでそれほど重くはないのですが、何かおもしろい物があればいつでもとれるようにしています。電池は単三2本が電源なので、なくなればいつでもコンビニで電池を買うことが出来るので、充電器を持参する必要もありません。しかし、今は充電式の電池を使用しているので、時々、電池の残量を確認しないと電池切れになっている場合があるので、確認をしています。
私が座っているPCの傍には犬のチワワ「ふく」、プードル「ひな」の2匹が傍にいます。特にプードルの「ひな」は遊んでほしいようで、背中を引きかくようにしてあいてにしてほしいとおねだりをしたりしています。物を投げればそれをくわえて帰ってきてはまた投げるといった具合に、それの繰り返しをしています。こちらは、パソコンを打ちたいのに、途中で手を休めぬいぐるみを投げて遊びあいてをしています。ちょっと疲れますが。「ふく」は6歳を越え落ち着いていますが、「ひな」のまだ2歳なので元気いっぱいです。上が「ふく」、下が「ひな」です。「ふく」はちょっとメタボ気味、で少し体重を減らさないと行けない状態です。「ひな」はやんちゃ盛りで特にシッポをいらわれるのが嫌で、逃げで行きます。
いつまでも元気に、私たちを癒してくれればと思います。

次男も今月で20歳に

我が家の次男も今月で20歳になります。年月のたつのが早いなぁ、と感じます。妻は、産休に入りすぐに破水をしてしまい、未熟児でこの世に誕生しました。ちょうど、N海学園へ出向中で妻が出産したと聞いて、ビックリし仕事も昼から帰らせていただき、そのまま病院へ向かいました。未熟児で生まれ、医者からは障害が残るかもしれませんと告げられたときは、目の前が真っ白になりまた。20年前は、未熟児医療センターは東成区にあり、仕事が終わると地下道を通り、ガラス越しに我が子を見るのが日課になっていました。保育器に入った他の乳児も見ながら、早く退院できる日を待ち望んだものです。ただ、障害がどの程度残るかは、わかりませんでしたが、網膜症か知的障害かと私の頭の中でいろいろと考えていました。私の仕事が知的障害者の人たちを相手にしているので、子どもが出来たときに、五体満足な子供が生まれてくれればいいと思うばかりで、まさか、自分の子どもがと因縁みたいなものを感じました。
3ヶ月ほど経過すると、体も大きくなりようやく母親の母乳を与えられるまでに成長し、二人で我が子を抱きかかえました。
退院することも出来、特に障害らしき兆候もなく、育ちましたが、やはり他の子どもと比べるとひとまわり小さい赤ちゃんでした。保育所にも入所し、初めての運動会では、その小ささが目につきましたが、ハイハイしながら元気に運動会に参加していました。
保育所の6年間の送迎は私の仕事、長男と次男を自転車と背中に背負い保育所通い、この6年間は本当に長く感じました。次男の方も特に障害らしき兆候なく、胸をなで下ろしたものす。産院の先生が生まれたときに産声を上げたので、なんとかなると言っていたのを思い出し、産声を上げたおかげで脳に酸素が行き脳に障害が残らなかったようである。
小学生の時は少年野球をやり休みの日には、観戦に行ったりして小学生時代を過ごし、中学生からはラグビー部に入り3年間やり通しました。高校はF工業高校へ入学し、そこでもラグビー部に入部し、花園に行くのが夢のようで毎日遅くまで練習に明け暮れていました。高校3年生になると、就職の話が担任の先生よりあり、本人は進学を希望していることを担任の先生に次げ、先生もビックリなさったようでした。H大阪短期大学の保育科に入学、苦手なピアノも知り合いの知人に教わりながら、何とかクリアーしたみたいです。今は、児童養護施設への就職も仮内定し、アルバイトに精を出しています。ただ、ラグビーの時に痛めた肩の手術があり、8月に右肩の手術を行い、来年の2月には、左肩の手術を行う予定です。タックルを繰り返すうちに、脱臼になり何かの拍子で肩が抜けてしまうので、抜けないように固定する手術を行うことになります。内視鏡でする手術なのであまり傷跡は残らない手術で、それが終われば、車の免許なども取りに行かなければなりません。4月からは社会人として、1年間は施設での寮生活をしなければなりません。児童養護施設は、本当にいろいろな子どもたちが、入寮してくるので一人前になるには、2から3年はかかるのではないかと思います。
これで親の責任は果たしたと思っています。長男の就職もありますが、まだ、21歳なのでチャンスはあると思うし、私もいろいろな繋がりを駆使して就職先を見つける努力はしていくつもりです。
後は夫婦でのんびりと犬の2匹とともに生活をすることになると思うと、少し寂しいような、気もしますが、いつまでも親の元で生活していては、自立できないことになるので早く正規職員での仕事を見つけて独り立ちをしてほしいと願っています。

今日は文化の日

11月3日は文化の日。今日は少し目に遅く起きました。それでも9時過ぎには目が覚め、朝食をいただきPCの前に座りブログを書くことにする。
このブログにも書きましたが、K物センターのZP作りは予想通り、1600箱を作るのはなかなか困難な状況です。時間を延長し、2回ほどZP作りを行いましたが、1300台強がやっとという状況です。
1回目の実績は1332箱×5.2円=6926円という結果になりました。反面、オリコン洗浄数は1400台強で、以前は、ZP作りをしていてもオリコンの洗浄台数は20台は洗浄できていたので、大幅な収入減になってしまいました。こんな、愚痴を書いても仕方がありませんが、現状報告をしておきます。

昨夜は、家の近くにあるうまかっぺ大将という、居酒屋に一人で行きました。店に入ったときは中年の女性ばかりで、何となく居心地は悪かったのですが、その後は男性客も来て、一人静かに、本を読みながら飲んでいました。どうも、酒を飲むと読みかけの本が読みたくなるようで、ちょうどカウンターの端に座り、あまり目立たないので、飲みながら読書をしていました。友人からは戦国ものの本を読めと言われ、今読んでいますが、最近は経済関係、農業関係、尖閣諸島問題での排他的経済水域の本や特にテーマは決めずに、気になる事があると本を参考に理解を深めています?。

中国の国は本当に嫌な国ですね。そんな国に行きたいとも思わないし、行くこともないと思います。
資源問題が絡んでくるので、余計に中国は強気に出ているようです。尖閣諸島周辺には、海底にイラクの原油の推定埋蔵量に匹敵する1000億バーレルほどの原油が眠っているとのこと、金額にすると700兆円規模の原油があると言われています。日本にとって資源のない国から、資源大国になる可能性を秘めたところだけに、日本の今後の外交姿勢が問われてくるのではないかと思います。

日本は領海と排他的経済水域の面積は世界で6番目の広さを持っている。それに、海の深さを足すと世界で4番目の広さと深さを有する体積と面積になります。海には水産資源や海底の底には石油、天然ガス、石炭、等々の資源が埋蔵されていたり、数多くの金属類も存在しています。マンガン、ニッケル、コバルト、銅や「コバルト・リッチ・クラスト」という鉄、マンガン、コバルトを含む固まりが海底に転がっています。さらに亜鉛、銀、銅などの金属類を大量に含んだ海底熱水鉱床なども存在が確認されているそうです。また、海水にはウランなども含まれていて、ウランの値段が上がれば採算がとれるのではないかとも言われています。
水深300㍍を超える海底には、メタンハイドレートと呼ばれる氷状になったメタンが層をなして分布しており、日本で消費する天然ガスの100年分に相当する量があり、それの採取実験が進行中である。
以上のように、日本の海は水産資源も豊かで海底には原油やレアメタル(希少金属)も確認されており、今後、その採取技術の開発と採掘を行うことで、日本は資源大国になる可能性を秘めた、海を有している。日本の技術を持ってすれば、解決するだろうと私は思っています。

日産ケリー前代表取締役の保釈決定 保釈金7000万円 東京地裁

金融商品取引法違反の罪で起訴された日産自動車のグレッグ・ケリー前代表取締役について、東京地方裁判所は保釈を認める決定をしました。検察はこれを不服として準抗告するとみられますが、裁判所が退ければ、ケリー前代表取締役は早ければ25日にもおよそ1か月ぶりに保釈される見通しです。一方、...