「“あの時”に時間を戻せたらいいのに、ということはいつも思います。ただ、もしも“あの時”に戻れるとしても、今の自分で戻りたいです。自分まで当時の自分に戻ったら、また同じことを繰り返してしまいそうだからです」
昨年9月中旬、宮崎刑務所の面会室。2010年に宮崎地裁の裁判員裁判で死刑判決を受け、当時最高裁に上告中だった奥本章寛(27)は、そう率直な思いを口にした。奥本が言う“あの時”とは、自分の手で家族3人を殺めた“あの時”のことだ。
奥本死刑囚が収容されている福岡拘置所
■「宮崎家族3人殺害事件」とは
2010年3月1日の早朝5時頃、奥本は宮崎市の自宅で生後5カ月の長男を浴槽の水に沈めて溺死させ、妻(当時24)と義母(同50)をハンマーで撲殺。そして日中はいつも通り会社に出勤して働き、夜9時頃、自宅近くにある会社の資機材置き場で長男の遺体を土中に埋めた。そのうえで第一発見者を装って警察に通報したが、犯行はすぐに露呈し、逮捕。裁判では昨年10月、最高裁に上告を棄却されて死刑が確定し、現在は福岡拘置所に収容されている。
奥本死刑囚が長男の遺体を埋めた資機材置き場
そんな事件の概略だけを聞くと、奥本に「死刑で当然の凶悪犯」という印象を抱く人は少なくないはずだ。しかし実際には、奥本ほど多くの人から愛され、「生きて償うこと」を望まれている死刑囚は珍しい。何しろ、裁判中に支援者らが集めた減刑の嘆願書は6,000筆を超え、被害者遺族までもが最高裁に「裁判のやり直し」を求める上申書を提出したほどなのだ。
なぜ、そんなことになったのか。奥本章寛とはどんな人物なのか。
■義母との深刻な関係
福岡県豊前市の山あいの街で生まれ育った奥本は小中高と剣道部のキャプテンを務め、人あたりもよく、地元では誰からも好かれる少年だった。高校卒業後は自衛隊に入り、勤務地の宮崎で知り合った妻と結婚。結婚を機に水が合わなかった自衛隊を辞め、土木関係の会社に転職したが、まじめな仕事ぶりで社長から信頼されていた。そしてほどなく長男を授かった。
そんな一見幸せそうな新婚家庭の中で、しかし奥本は毎日苦しんでいた。同居していた義母(妻の母)の存在のためだ。
義母は奥本が結婚の際に自衛隊を辞めたことと、結納も挙式もしなかったことに強い不満を抱いていた。そして事あるごとに「自衛隊を辞めた時からあんたは気に食わん」「結納も結婚式もしなかった」と奥本を面罵した。奥本の実家はよく米や野菜を送ってくれたが、義母は「お前の家族は何もしてくれん」と言い、奥本の両親が福岡から訪ねて来た時も家に上げるのをいやがった。
義母のそんな仕打ちに対し、忍耐強い性格の奥本はひたすら我慢し続けた。ただ、義母との衝突を避けるため、当時は会社が終わっても車の中で過ごし、帰宅時間は夜の10時、11時になるという生活に陥った。一方で朝は土木作業員ゆえに4時、5時から現場に出なくてはならず、睡眠時間を削られた奥本は心身ともに疲弊していった。
そして事件の6日前、事態を最悪の方向に向かわせる、ある事件が起きる。
■被害者遺族のほうが「謝りたい」
現場となった奥本死刑囚の自宅は事件後取り壊された
きっかけは、些細なことだった。長男の初節句を福岡と宮崎のどちらでやるかをめぐり、義母が実家の両親と対立。感情が高ぶった義母は、奥本の頭を何度も殴りつけてきた。
「部落に帰れ。これだから部落の人間は」「離婚したければ離婚しなさい。慰謝料ガッツリ取ってやる」
殴られながらそう罵倒され、奥本はとうとう緊張の糸が切れてしまう。そして当初は自殺も考えたが、最終的に下した決断は家族3人を全員殺害することだった。なぜそれが解決になると思えたのかは奥本自身もよくわからない。心理鑑定によると、当時の奥本は精神的に疲弊し、視野狭窄、意識狭窄の状態に追い込まれていたという。そして、“あの時”を迎えた。
「心理鑑定の鑑定書は読みましたが、鑑定書の通りだと思いました。自分は元々視野などが狭かったと思いますが、“あの時”はいつも以上に視野狭窄になっていたと思います。すべての原因は自分にありました」
面会の際、奥本はそう振り返ったが、この事件の原因が奥本だけにあるとは思えなかった人物が被害者遺族の中にいた。奥本の妻の弟であるYだ。Yは母(奥本の義母)の性格や日頃の言動を当然よく知っている。上告審段階になって奥本と面会し、最高裁に「裁判のやり直し」を求める上申書を提出したYは、その中でこう書いていた。
〈母のほうが悪かった部分については、自分のほうから被告奥本に謝りたいという思いもあったくらいです〉
しかし、奥本の上告を棄却した最高裁のわずか3枚の判決文では、このYの上申書の存在に何一つ触れられていなかった。
■「最後までしぶとく生きる」
奥本死刑囚が筆者にくれた現時点で最後の手紙
実際に会ってみると、奥本はいかにも田舎の朴訥な青年という雰囲気の人物だった。獄中では、被害者たちの供養のため、写経や読経を日課に。また、被害者遺族への弁償資金をつくるため、支援者らの協力を得てポストカードを製作しており、そのための絵を毎日描いているとのことだった。
「絵は、被害者3人のことを思いながら描いています。とくに妻と息子のことを想って、心の琴線に触れたものを2人に重ねながら描いています」
そう語っていた奥本は最高裁に上告を棄却された直後には、「この結果(死刑)を潔く受け入れて死のう」とも思ったが、最終的には再審の請求や恩赦の出願をし、「生き続けること」に決めたという。死刑確定後、面会や手紙のやりとりはできなくなったが、最後にくれた手紙には、その真意がこう綴られていた。
画像は、遺族への弁償のために奥本死刑囚の絵で製作されたポストカード
〈私が今、考えていること(再審や恩赦)はまったく潔くありませんが、間違っていないと思っています。私は、被害者3人の命をある日突然奪ったのですから、私が死ぬ心の準備をするのはおかしいです。私も死ぬ時は、死ぬつもりがまったくない状態で死ぬべきです。最後までしぶとく生きるつもりです〉
奥本はこれからどんな人生を歩むのか。その近況は「奥本章寛さんと被害者家族を支える会」のホームページで適時報告されている。 トカナより
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