2010年11月7日日曜日

福保労60周年に参加

昨夜は、福保労60周年レセプションに遅刻して参加しました。K物センターの仕事が18時25分まで残業になり、急いでバスと京阪と地下鉄に乗り継ぎ、大阪府社会福祉会館へ行きました。会場には入ったときはすでに、レセプションも後半になっていて、とりあえずビールを飲みのどを潤した。
会場には、H先生や岡山から来ているK氏など日頃お世話になっている人たちが参加していました。その他にも私が大阪市内支部のの副委員長をしていた時の、人たちも参加していて懐かしさを覚えました。
H先生とも話をし、私がいつまでK物センターにいるのかという話をしました。T郷も虐待問題でまだ、ゴタゴタしている時で年内には何とか片がつくのではないかと話をされていました。今はT郷の理事長に就任しているとのこと。前理事長が退任し、その後をH先生が理事長に就任したとのことである。
K物センターの方の体制も考えなければならないと言っていました。私は来年の3月末までは、行ってもらうことになるという事みたいです。
T郷のが落ち着けば、もう少し早くなるかもしれないとも言っておられました。N法人やK法人の方の合併や、K物センターの件も手を入れなければならないとも言っていました。
H先生も福保労(旧日社労組)の委員長をされていて、委員長のインタビューを冊子から抜粋させていただきます。
「私は、1977年に日社労組の委員長になる前に、総評全国一般大阪地連のオルグをしていました。この時、日社労組も担当しており、「鶴野闘争」も受け持ちました。
当時は、「社会福祉事業の職場に組合があるのはおかしい」という考えが強く、保育用具を要求したら「解雇」ということになり、法廷闘争に入りましたが、鶴野さんも病気になり、結審は「和解」となりました。
全国一般の専従を辞めた時は、S学園から要請の話があり、S作業所の責任者などをしていました。委員長になったのは、第二次黒田革新府政時代の頃で、公私間格差是正が大阪府・大阪市しで実現されて、全国的に革新自治体の作りの動きがあった頃です。組合の要求も前進をみせていました。
大阪支部としての闘いでは、大きなものとしてポニーランド保育園の闘いがありましたが、委員長としての行動は、日社職組の中央本部段階の行動が重きをしめていました。
社会事業のみではなく、保育も含めて組合を作ろうという時期で、東京、名古屋、京都と全国的に要求が高まっていました。大阪は両者が合体してできていましたが、全国的にはそうではなくこの運動のために、よく上京していました。
S学園で、都築常務理事の時、常務から話が出され2~3の運動に係わりました。
一つは、S愛育館の時で、働いている者を軸にした映画作りで、「明るい明日」の映画作りに係わりました。
二つ目は、S協との係わりで、今のP協です。昭和6年に出された「日本消費者連盟」の本の学習から始まり、S協と都島医療生協が合併しました。次にS市民生協、K市民生協、M市民生協が合併して、今のP協となったのです。
三つ目は、S学園の福祉まつりとの係わりで、大きなまつりを参考にして、福祉まつりに取り組みました。異なる職種の職員が、まつりを通じて団結すると言うことを目的におき、平和、福祉が共通している団体に呼びかけ、初めは少なかった参加者が、多い時は7000人から8000人まで伸びました。
最後に、今の福祉職場の現状をみると、構造改革の影響を受け、現代は社会福祉といえる基盤が弱くなっているのではないかと、制度が抜けて福祉が一人歩きをしているように感じます。もう一度、公的責任である福祉が見直されるべきではないかと思います。」というメッセイジを書いておられます。
岡山のK氏にもお会いし、ベトナムの話に花が咲きました。また、一緒に行こうと言うことも言っていただき、今度は、ハノイから電車でホーチミンに行くことを話をすると、それもいいなぁと言っていただきました。息子の就職の件も、お願いしM医連の事務局の職員の募集があれば、是非お願いしますと言っておきました。
今日は久しぶりに二日酔い気味です。

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