2015年11月23日月曜日

日本共産党の矛盾

上からの演繹で多くの判断間違い

どの政党でも自らを天まで持ち上げる傾向があるが、なかでも日本共産党という政党ほど、自己を持ち上げる政党はあるまい。最近でこそ、「前衛」という言葉や労働者階級の中での「最高の階級的組織」などという言い方はしなくなったが、革命の指導政党としてあらゆる組織や運動の一段上に立つ組織というのが、共産党という政党の最大の特質なのである。社会主義国の憲法に、表現はいろいろだが共産党が「指導政党」として明記されていることでも、そのことは明らかである。

こういう絶対的権威を持つ政党は、知らず知らずに無謬主義(誤りを犯さない)に陥ることがある。だが実際には、どうか。文学者、評論家で東大教授でもあった竹山道雄著『昭和の精神史』(中公クラシックス)に次のような指摘がある。「まずある大前提となる原理をたてて、そこから下へ下へと具体的現象の説明に及ぶ行き方は、あやまりである。(中略)このような『上からの演繹(えんえき)』は、かならず間違った結論へと導く。事実につきあたるとそれを歪(ゆが)めてしまう。事実をこの図式に合致したものとして理解すべく、都合のいいもののみをとりあげて、都合のわるいものは棄てる」。まさしくこの通りである。

例をあげればきりがないが、朝鮮戦争(1950年~1953年)も最初はアメリカ帝国主義が仕掛けた侵略戦争という評価であった。社会主義国は「平和・進歩勢力であり、侵略などしない。悪いことはしない」という原理を先に立てていたから、このような判断違いを犯す。社会主義国の核実験は「防衛的」などというのも同じ類である。このような事例は、枚挙にいとまがない。ソ連が崩壊した時、ソ連を「巨悪」と表現して崩壊を歓迎してみせたが、そのソ連を社会主義国として最も高く評価してきたのは、日本共産党であった。レーニンの時代は良かった、スターリンになって変質したというが、そのスターリン時代も、その後も、基本的にはソ連を社会主義国として評価してきた。これによってどれほど多くの若者を誤導してきたことか。このことへの反省は微塵もない。
もっと言えば、「前衛」だとか、「最高の階級的組織」などという思い上がった共産党の立場こそが、一党独裁、全体主義を生み出してきた。このことへの根本的反省こそなされるべきであろう。

融通無碍-憲法9条に唯一反対した政党が「9条は世界の宝」と

いま日本共産党は、「護憲」を大看板にしている。だが憲法制定時、日本共産党は天皇条項と9条に明確に反対し、政党としては唯一現憲法の制定に反対していたのである。その政党が「憲法9条は世界の宝」というプラカードを掲げているのを見るとあきれ果てるしかない。

1946年8月24日、衆議院本会議で反対討論に立った野坂参三は、次のように述べて憲法9条に反対している。

「現在の日本にとってこれ(草案第9条)は一個の空文にすぎない。われわれは、このような平和主義の空文を弄する代わりに、今日の日本にとって相応しい、また実質的な態度をとるべきであると考えるのであります。要するに当憲法第二章は、我が国の自衛権を放棄して民族の独立を危うくする危険がある。それゆえに我が党は民族独立の為にこの憲法に反対しなければならない」
誠に正論である。当時、吉田茂首相が自衛権すら否定する答弁をしていたこともあったが、平和主義を空文とまで批判しているのである。

もともと改憲政党であった

最近、共産党は、その後、吉田首相が自衛権は保持していると国会で答弁したのでこの評価を改めたと説明している。

だがそうではない。野坂討論は、民族の独立のためには、自衛権を持ち、自衛軍を持たなければならないと主張しているのである。他方で現在の9条の下では、自衛隊は憲法違反の軍隊だと規定している。ではどうやって民族の独立を守るのか。憲法9条を改正し、憲法で認められた自衛軍を持つというのが、共産党の立場でなければならないはずだ。

実際、共産党は1990年代後半まで、改憲を目指していた。1973年11月の第12回党大会で「民主連合政府綱領提案」が採択されるが、自衛隊は憲法違反なのでいったんは解散させるが、その後、憲法を改正して「最小限の自衛措置をとる」としていた。1985年版『日本共産党の政策』という政策集でも、「将来の独立・民主の日本において、国民の総意で最小限の自衛措置を講ずる憲法上の措置が取られた場合には、核兵器の保有は認めず、徴兵制は取らず志願制とし、海外派兵は許さないようにします」と明記していた。どこから見ても疑いようのない改憲政党だったのである。
一国の独立、民族の独立を考えるのであれば、至極まっとうな立場であった。それが日米安保条約も廃棄する、自衛隊も解散させる、という丸腰論にまでなってしまったのが、現在の共産党である。

ただ卑劣なのは、自衛隊の解散も、日米安保の廃棄も、「国民合意でやります」と言っていることである。こんな国民合意などできるはずもないことを百も承知でこういうのである。つまり自衛隊の解散も、日米安保の廃棄も真面目で、本気の主張ではないということだ。

少なくとも憲法制定時の日本共産党の態度は、日本の平和と安全にもう少し真面目に対応していたはずだ。にもかかわらず憲法が公布されてから68年、いまでは日本の平和と安全を真面目に考えることが出来なくなってしまったということでもある。

核エネルギーの平和利用が一貫した主張だった

日本共産党は、もともと核エネルギーの研究・開発に賛成の立場であった。核実験についても、かつてはソ連の核実験は「防衛的」なものとして賛成していた。そもそも核エネルギーの平和利用について、原理的に反対したことは一度もない。それは当然のことで典型的な進歩主義である科学的社会主義の立場に立つなら、新しい技術開発やエネルギー開発を肯定するのが当然だからである。

だからこそ終戦直後には、共産党は「光から生まれた原子、物質がエネルギーに変わる、一億年使えるコンロ」(日本共産党出版部『大衆クラブ』1949年6月号)とか、「『原子力を動力として使えば、都市や工場のあらゆる動力が原子力で動かされ』、冷暖房自在で『飛行機、船舶その他ありとあらゆる動力として、つける』」(日本共産党当時書記長徳田球一の『原爆パンフ』)などと原子力を絶賛していた。

広島、長崎への原爆投下についても、終戦直後に批判したことはなかった。なにしろポツダム宣言を絶賛し、占領軍を「解放軍」と評価したぐらいなので、ある意味当然のことであった。

その後、既存の原発の安全性について、厳しい批判を行ってきたことは事実である。だがそれでも「核エネルギーの平和利用」を否定したことはなかった。

それが3・11以降、急きょ「原発ゼロの日本」を主張し始めたのである。だが共産党の政策文書を見ると「脱原発」という表現はなく、「原発ゼロ」という表現で統一されているようだ。原発をゼロにするための廃炉などのために、原子力の基礎研究は引き続き行うとしているが、「平和利用」のための基礎研究は行わないということなのだろうか。

行わないとするならば、「平和利用」を主張してきた政党として、そもそも「平和利用」という主張自体が原理的に間違っていたという総括をすべきではないのか。そうでなければ無責任の誹りを免れないであろう。産経ニュースより

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