2016年6月17日金曜日

台湾人が提示する、中国が台湾を「日本の一部」と見なしていた証拠

 
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「一つの中国」という立場で、台湾を自国の一部と主張する中国。しかし、メルマガ『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』の著者で台湾出身の評論家・黄文雄さんは、「中国はかつて、台湾は日本に属する、もしくは自分たちの支配地域ではないという立場を取っていた」としています。メルマガでは日本が台湾に出兵した「牡丹社事件」など歴史的事実を時系列で追いながら、その証拠を白日の下に晒しています。

かつて中国は台湾を「日本に属する」と見なしていた

日本人と台湾人の関係は、意外と長くて深い。場合によっては、支那人と台湾人以上のつきあいだともいえるだろう。倭寇が東シナ海で活躍していた時代、倭寇はしばしば台湾を中継貿易基地や給水地として利用していたといわれている。明確な史料がないため、その裏付けをすることはできないのが残念である。

しかし、1624年にオランダ人(東インド会社)が通商拠点として台南一帯を占領し、安平港にゼーランジャ城を築いたときには、すでに百数十名の日本人がいたという記録が残っている。その2年後にスペイン人が北部台湾の淡水港に築城したときにも、日本人は存在していた。

オランダ時代の台湾と日本人については、長崎代官・末次平蔵の朱印船船頭であった浜田弥兵衛とオランダ長官のヌイツとが争った事件が有名だろう。これは1625年、朱印船の輸出税課税をめぐる紛争から、渡台してきた浜田弥兵衛を当時の台湾長官が監禁したことで事が大きくなった。
浜田はその逆襲として、28年に長官ヌイツを台湾に監禁、人質としてその息子5人を平戸まで連行し、幕府にオランダ平戸商館を閉鎖させた。さらに、オランダが有する台湾の城塞引き渡し、または破壊を要求。結局、オランダ商館は青銅の灯篭を日光東照宮に献ずることで一事をしのいだが、江戸幕府とオランダのバタビア政府との間に残ったしこりは、和解まで10年もかかった。しかし、この事件以外にも、あまり知られていない日台関係があった。

18世紀、乾隆帝時代の清国で完成された官定の正史明史』には、台湾北部の鶏篭国(高山国)は「外国列伝」のなかで紹介され、「日本に属するとも記されている。当時の支那人は、古代台湾を東方海上に浮かぶ日本の一部だと誤認していたのだろう。

確かに、清朝占有前の台湾は、倭寇暗躍の地であり、倭寇の「巣窟」とみなされていたため、日本の領土の一部だと誤認してもおかしくない。台湾が倭寇の根拠地だったことは、「寇民遁れて海に入りて台湾の地に向かう」(嘉靖42年、正親町天皇の永禄6〈1563〉年)という、明代の記録からも分かる。

支那人が持っている台湾知識は貧弱そのものであり、宋代につくられた『華夷図』には、海南島は描かれていたが、台湾は存在していなかった。史上最初の台湾の地図は、ポルトガル人がつくったものである。

このころの日台交流でよく知られているのは、文禄2(1593)年に豊臣秀吉が使者を台湾へ送ったことである。秀吉は、「高山国王」に入貢服従を促す内容の国書を原田孫七郎に託した。孫七郎は、豊臣秀吉にフィリピン遠征を提案したことでも知られている長崎貿易商人・パウロ原田喜右衛門の手代であった。

しかし、この秀吉の目的は達成されなかった。なぜなら、当時の台湾には主権者たる国王がおらず、各地方の代表者といえば各集落の首長であり、国書の受け渡しなどできる状態ではなかったため、入貢のことまで話をすることができなかったからだ。

それでも日本政府は台湾との接触を試み続けた。それを裏付ける二つの記録が残っている。ひとつは、山田長政がシャムへ行く途中に一時台湾に停留していたという記録。もうひとつは、泉州堺の商人・納屋助左衛門(呂宋助左衛門)が文禄3年に台湾で奇利を博し、日本に帰って秀吉に謁見して珍品を献じたという話が「三才図会」にある。

また、秀吉の逆鱗に触れた助左衛門は、「桜丸」号にて琉球へ逃れ、慶長元(1596)年に台湾の淡水に寄港したという記録が残っている。さらに彼には、慶長16年にはシャムへ渡るため、台湾内を探険したという記録もある。

江戸時代に入った慶長13年、徳川家康は日本に漂着した台湾のアミ族を駿河で引見した。このことは、『パンチア国人と今』という書物に記録されている。台湾に興味を持った家康は、その翌年、有馬晴信に台湾探険を命じる。

家康の命を受けた有馬晴信は、部下を台湾に送ってまずは視察をし、原住民を撫順してから通商を試みたが、結果は失敗に終わる。元和元(1615)年、今度は長崎代官・村山等安が高山国の朱印状を得ることができた。村山は人を集めて台湾へ渡り、日本との貿易と入貢を求め、ひそかに台湾占有を狙ったのだが、有力な後援を得られずにこれまた失敗した。

先に述べたように、その後の1624年以降、台湾南部はオランダ人に領有され、1626年以降、台湾北部はスペイン人に16年間も領有される。

オランダ人は1643年、ボーン大尉を隊長とした東台湾探索を行っている。目的は金鉱脈探しであり、探索隊は台南の安平から出発して北回りに淡水、基隆を訪れた。このときの金鉱情報提供者のなかに、伴天連(カトリック宣教師)らしい人物であるハシント・九左衛門という日本人の名前が出ている。

オランダ人の記録によれば、日本の朱印船が南海で活躍していた時代、朱印船は基隆、淡水、安平、高雄も訪れており、各港には日本人街ができていたらしい。

倭寇時代から、オランダ人が台湾を領有した時代までの日台関係は、人的ではなく物的な関係が主流であった。八幡大菩薩の幟を掲げていた八幡船や御朱印船は、甲冑、刀剣、塩、漆器、扇子、生活雑貨を台湾へ積み出し、金、鉛、生糸、絹織物、鹿の皮、ガラス、黒檀などを台湾から日本へ持ち帰っている(ただ、台湾は貿易の中継地として利用されていただけで、この当時の台湾には甲冑など必要なかった)。

台湾出兵の発端となった「牡丹社事件」

さて、日本が近代を迎えてから、その後の日台関係に大きな影響を与える事件が勃発した。それは明治維新直後の明治4(1871)年に起こった「牡丹社事件」である。

これは、宮古島の朝貢船が暴風に流され、遠く台湾東南部の八瑤湾に漂着したことからはじまる。そこには、原住民のパイワン族が住んでおり、彼らは日頃から略奪や虐殺を繰り返す支那人を目の敵にしていた。そこへ琉球人が漂着したため、彼らは支那人と間違えて襲いかかり54人も殺してしまったのである。

生き残った12名の琉球人は、命からがら逃れ、漢人集落から福州へ移されて翌年の明治5年6月、那覇に送り返された。

この事件を知った、天津駐在公使であった柳原前光(大正天皇の生母・柳原愛子の兄)は、本国の外務省へ詳報を送った。その報に触れた鹿児島県参事の大山綱良は非常に憤慨し政府に海外派兵を具申したのだった。

明治6年8月23日、樺山資紀陸軍少佐は、児玉平輔海軍大尉ほか2名とともに原住民の情況偵察のため、台湾東北部の蘇澳にあるブトウ社でタイヤル族の首長と会見した。樺山らは一時、花蓮港平野を占領するという構想を持っていたが、後に計画を変更して牡丹社討伐軍に加わることとした。

牡丹社出兵をめぐっては、当時の政府内部で意見が分かれた。木戸孝允、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通、井上馨、渋沢栄一などの外遊帰国組は非戦論を説き、大隈重信、板垣退助、桐野利秋、副島種臣らは主戦論を説いて、征台論で朝野が騒然となった。

この件について明治天皇は副島種臣に全権を委ね、柳原前光を副使に任命すると決定を下し、清国政府との交渉にあたらせた。

台湾での事件に「われ関せず」を決め込んだ清国

副島全権大使は、同治帝との国書奉呈の謁見をめぐって清国の総理衙門(軍機大臣)とちょっとしたトラブルを起こした。清国側は、日本は中国と同文同種であるから、皇帝の前に出たいなら中国人同様に、まず「跪拝の礼」(ひざまずいて礼をする)をしてから用件を述べるべきだと要求。

しかし副島は、「跪拝の礼」とは属国が宗主国に対して行うことであり、日本と清国はそういう関係にあらず、ときっぱりと断った。そして、各国の北京駐在公使の一括謁見の前で、「跪拝の礼」を行うことなく「三揖」(立礼3回)のみをした後、国書を奉呈し賀詞を述べて退出したのである。
このことは、初めて清国と対等な立場で謁見した国家が現れたと、各国駐北京大使の間で称賛された。副島の件以前にも、清国は同じようなトラブルを他国と起こしており、たとえば乾隆帝の時代、英王ジョージ3世の特使マッカートニーが謁見を求めたときも、「三跪九叩」の礼をめぐってトラブルがあった。以来、西洋各国はその礼儀の国との「礼」をめぐるトラブルが続いた。

しかし、それまでは日本のような態度を取った国はなかったため、よけいに日本の態度が目立ったのである。これ以来、各国駐北京公使との一括謁見は中止となった。

それはともかく、副島との交渉に臨んだ清国政府は、「台湾東南部の生蕃(清国は反抗する台湾原住民をこう呼んだ)は化外の地の民であるため、その所業の責任を負うことはできない」との回答をしてきた。つまり、清国は台湾問題にわれ関せずの態度であったのだ。

交渉にあたった柳原公使は、「ならば、彼らの凶悪を懲罰し文明の征伐を図ることは開化政府の当然の義務である」との捨て台詞を残して引き揚げた。

この顛末を聞いた反戦論派の岩倉や大久保らは、態度をひるがえし討伐支持にまわった。こうして、台湾出兵の大勢が決まった。明治7年2月、台湾蕃地事務局総裁に大隈重信が、総指揮官である台湾蕃地事務都督に西郷従道陸軍大輔(次官)が任命された。

「台湾事件(牡丹社事件)」から「台湾出兵」への決定は、大久保利通と大隈重信が「台湾問題」(征台論)と「朝鮮問題」(征韓論)の問題処理に副島をはじめ外務省のリゼンドル顧問、柳原前光、鄭永寧ら「副島部屋」の面々と相談のうえ立案したものであった。決定が下された後、大久保と大隈は連名にて「台湾蕃地処分要略」全九カ条を答申し、それが閣議を通り国策として発動される運びとなった。

その第一条には、「無主の地清国領土外と見なされる台湾先住民地域(蕃地)に対して、琉球民殺害への「報復」処置として「台湾出兵」を基本方針とするとある。また、原住民討伐と現地人への撫育(保護)も挙げられている。

同年4月、西郷は谷干城陸軍少将や赤松則良海軍少将らをはじめ、軍艦5隻、船舶13隻、兵員3,600名を率いて台湾へと赴いたのである。ちなみにこのとき、西郷隆盛は士官を中心にした士族300人を集めて信号隊を編成して、西郷従道の出征を支援している。また、後の三菱財閥を築いた岩崎弥太郎は御用船の手配にあたっている。 MAG2NEWSより

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