1952(昭和27)年1月、韓国の李承晩大統領(1875~1965)が「隣接海洋に対する主権に関する宣言」を出した。
半島周辺の広大な海域に一方的に線引きし、主権を主張。日本漁船の排除を目指したものだった。
日米両国は「国際法上の慣例を無視している」と抗議した。しかし、サンフランシスコ平和条約の発効前で、日本の主権は回復していなかった。海上自衛隊の母体となる「海上警備隊」も発足していなかった。
朝鮮戦争の最中であった。米国も戦争遂行を考えれば、李に強く出ることはできなかった。
この宣言前後から、韓国による日本漁船の拿捕が頻発した。
腐った魚
1955年2月8日、福岡市の木造漁船、第1筑紫丸と第2筑紫丸(いずれも約70トン)が韓国警備船に拿捕された。乗組員の一人、石井作男氏は6カ月間の懲役刑に服役した。手記が残る。
計23人の乗組員は2月1日、福岡を出航した。8日午後2時ごろ、韓国・済州島南方の約80キロ沖で、韓国の警備船に拘束された。
乗組員は釜山に連行された。海洋警備隊ら韓国の当局者が入れ代わり立ち代わり現れた。彼らは魚や米、みそなど、乗組員の私物を持ち去っていったという。
「小説で良く見る戦国時代の群盗と少しもかはり(変わり)ないありさまでした」。手記にはこうある。
裁判で、韓国の領海に立ち入っていないとする石井氏らの主張は一切認められなかった。
「取り調べから判決まで、全てがただ形式的にやるというだけの」手続きで、乗組員には懲役6~10月が言い渡された。
石井氏は半年、刑務所で過ごし、8月27日に釈放された。
もうすぐ家族に会える。その希望は、打ち砕かれた。釜山の外国人収容所に送られた。5棟の収容棟があり、計約700人の日本人がいた。
そこには2年3カ月もの間、収容所で暮らしている日本人がいた。服役を終えたからといって、帰国できる保証はなかった。抑留船員による即時帰還運動も、解散させられていた。
食事は毎食、どんぶり一杯程度の麦飯だった。十分炊けておらず、岩塩で味付けされた汁物には砂が混じる。魚も腐っているのか、食べられるものではなかったという。
収容所の勤務員が、収容者用の食器で、靴や汚れ物を洗うこともあった。
「人道を無視した李承晩政府の行為は、天人共に許されるべきものにあらず」
石井氏は激しい憤りの中で、脱走を決意した。収容所の出入り業者を通じ、小舟を確保した。
2挺(ちょう)の櫓を必死に漕いで、対馬を目指した。食料は持ち出せなかった。
24日未明、船底から浸水し、転覆した。死を覚悟しながら、舟にしがみつく。数時間後、山口県・仙崎港所属の漁船、金比羅丸が漂流する石井氏らを発見した。70時間を超える渡海だった。
石井氏は手記の最後にこう記す。
「李大統領の非道を訴え、日本政府の軟弱外交に一矢を報いる覚悟であります。厳冬を目前に控えて、異国の収容所に呻吟(しんぎん)する我が同僚を思うとき、一刻も猶予することは出来ないのであります」
李承晩ライン設定前後から、日韓基本条約が結ばれる1965年までの約13年間、日本漁船328隻が拿捕された。船員3929人が拘束され、死傷者も44人に上った。日本政府は船員釈放と引き換えに、日本の刑務所に収監されていた韓国人受刑者400人余りを釈放した。
海保の装備強化
現在の国際情勢で、韓国政府が、かつてのような拿捕行為に及ぶことはないだろう。だが、有事となれば、北朝鮮の軍隊や民兵が、後方撹乱(かくらん)として対馬海峡の漁船を狙う可能性はある。
九州近海をみると、2001年12月に九州南西海域で、北朝鮮のものとみられる工作船が見つかり、海上保安庁の船と銃撃戦となった。工作船は自爆し、沈没した。
こうした不審船や工作船への対応として、海保は装備を強化した。速力や搭載武器、防弾性能を向上させたヘリ甲板付高速高機能巡視船(2千トン)など計12隻を、2007年度末までに配備した。
ただ、日本近海の全域、離島を含む長い海岸線のすべてを警戒することは無理だ。海保は情報収集で、警察・漁協との連携も重視する。
五島漁協(長崎県五島市)の幹部は「国籍が分からないような不審船を見つけたら通報する。海保からもそのような要請を日常的に受けている」と語った。
65年前の教訓を無駄にせず、日本国民を守る準備が欠かせない。産経ニュースより
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