1981年6月、ボスニア・ヘルツェゴビナ南部の小さな村で奇跡が起きる。
ビヤコビチ村にある岩山の中腹に聖母マリアが出現し、メッセージを与えたというのである。
聖母を見たのは地元の6人の若者たちだ。この出来事は、教会のある隣村の名をとって「メジュゴリエの聖母出現」と呼ばれるようになる。
メジュゴリエの教会
聖母出現は、カトリックでは古くから報告されてきた奇跡だ。少なく見積もっても数千件はあるだろう。その中でもメジュゴリエが際立っているのは、聖母出現が現在まで続いているとされることだ。
見神者たちはすっかり成長したが、相変わらず聖母を見続けているという。しかも、見神者は公開の場で聖母からメッセージを受け取り、その動画が配信されるのだ。たとえば今月2日の聖母出現の様子は次の通りだ。
聖母のメッセージは各国語に翻訳されて、ブログやツイッターなどを通じて世界中に拡散される。こうして、メジュゴリエは、カトリックの聖地の中でも特に知られる国際的な聖地となり、毎年100万人の巡礼者が訪れている。
しかし、2017年5月13日、カトリックの指導者であるフランシスコ教皇がメジュゴリエの聖母出現に対して疑念を表明したことが報じられた(http://www.afpbb.com/articles/-/3128159)。
教皇が聖母の出現を否定する。いったい何が起きているのだろうか。この疑念表明は、カトリックという世界最大の宗教集団を理解する手がかりになる。
教会内の聖母像
「聖母出現」の歴史
聖母とはイエスを処女懐胎したとされるマリアのことである。
聖母の出現自体は、世界中で古くから伝承されてきた。だが、興味深いことに、近代化が進む19世紀以降、フランスをはじめとする西ヨーロッパで頻発したのである。
近代の聖母出現の先駆けとなったのが、1830年、パリの奇跡のメダル教会における出現だ。パリという大都会の真ん中で、しかも世界最古のデパートであるボン・マルシェの真横の女子修道院に聖母は現れた。
これ以降、フランスを中心に、各地に聖母が出現するようになる。聖母出現の報告があると、バチカンはそこに超自然的な要素があったかどうかを徹底調査するが、あまりの数に調査が追いついていない。そのため、多くの場所はバチカンの調査待ちの状態にある。
聖母の出現地を目指して岩山を登る巡礼者
聖母の出現地
教皇庁が認めているもので、広く知られた聖母出現地には以下のような場所がある。
ラ・サレットの出現(フランス、1846年、アルプスの高地で牧童2人に聖母が出現)ルルドの出現(フランス、1858年、14歳の少女に出現。お告げ通りに泉が湧く)
ポンマンの出現(フランス、1871年、聖母が上空に出現し、子供たちに文字でメッセージを伝える)
クノックの出現(アイルランド、1879年、聖ヨセフと聖ヨハネと共に聖母が出現)
ファティマの出現(ポルトガル、1917年、3人の子供たちに聖母が出現し、メッセージを託す)
このうち、ルルドは特に有名な場所だろう。聖母のお告げにしたがって掘ったところ、泉が湧き出たのだ。その水には奇跡的な治癒力があると信じられ、ルルドには世界中から傷病者が集まる。年間600万人もの巡礼者がいるとされ、カトリックでも最大規模の聖地である。
ファティマは20世紀になってからの聖母出現だ。子供たちに託された3つのメッセージのうち、最後の一つが長年公開されなかったため、様々な憶測を呼んだことでも知られている。
1981年には、ファティマの第3のメッセージの公開を要求するハイジャック事件まで起きた。2017年はファティマの聖母出現から100周年にあたり、フランシスコ教皇はその記念行事のために同地へ赴いていたわけである。
見神者の多くが子供である理由
ファティマには、聖母出現が公認される上で重要だと思われる特徴が指摘できる。見神者が幼い子供であり、出現後、間もなく亡くなるか、修道女として教会組織に加わっているのである。これは何を意味しているのだろうか。
バチカン当局から見た場合、聖母出現にはメリットとデメリットがある。
聖母出現という強烈な奇跡は、信仰をあらためて強化し、世俗化が進む社会に対して教会がインパクトを与えるきっかけになる。だが同時に、教会の外部に、教皇以外のカリスマを生み出す危険性があるのだ。
カトリック教会とは、教皇を頂点とするピラミッド型の巨大組織だ。大雑把に言えば、神の代理人である教皇の下に枢機卿、その下に大司教、その下に司教、その下に司祭という構造になっている。
そして、下位にとって上位の決定が絶対であるからこそ、カトリックは世界の隅々にまで渡って意思統一された組織として、圧倒的な存在感を持つことができているのだ。
しかし、聖母出現はこのピラミッド構造を揺るがす危険性を秘めている。イエスの母という存在は、イエスの弟子の末裔である教皇の権威をしのぐだろう。さらに聖母は人格を持つ。そのため、教皇や教会を批判するようなメッセージを発しかねないのだ。そして、聖母のメッセージを取り次ぐのが見神者なのである。
なぜ、公認された聖母出現の見神者のほとんどが幼い子供であり、多くは早逝したり、修道院に入っているのか。
その点、見神者は、大人よりも子供の方が適当だ。だが、子供たちも成長すれば、当然、様々な思惑や利害関係を持つようになり、それを聖母のメッセージという形で表現するかもしれない。したがって、見神者は無垢なままで亡くなるか、成長した場合は教会のメンバーに加わっていななければならないわけである。
このように考えると、メジュゴリエの6人の見神者たちは変わっている。聖母の出現時、彼らの多くは16歳前後だった。たとえばファティマの3人の見神者が10歳前後であることを考えると、同じ子供と言っても、少し年齢が上である。
さらに、彼らは、地元の教会・修道会と連絡をとりつつも、俗人として聖母のメッセージを伝え続けている。しかも、冒頭で挙げたように、群衆に囲まれた公開の場で聖母からメッセージを受け取る様子がYouTubeなどで配信される。
メッセージの内容を吟味する以前に、メッセージの受信・発信の仕方そのものが、カトリックの組織性と相容れないのではないだろうか。
今回の教皇の言葉を借りれば、「明日、同じ時刻にここに来なさい。そうすれば、メッセージを与えます」などと聖母が語るというは、あまりに都合の良すぎる話なのである。
聖母出現がもたらしたもの
今回の教皇の疑念表明は飽くまで「個人的」なものであり、しかも、最初の聖母出現ではなく、その後の現在まで続くとされる出現に対するものだという。
さらに、メジュゴリエを訪れたことで信仰を取り戻したり、同地で行われている宗教活動を否定したりするものではないとしている。
推測に過ぎないが、最初期の数回の出現は否定されず、その後現在までの出来事には超自然的な要素は見当たらないという結論になりそうである。
昨年、筆者がメジュゴリエを訪れた際に印象的だったのは、聖母出現という奇跡の求心性があるからこそ生まれた様々な活動である。
夜の礼拝に集まる巡礼者
戦争の傷がまだ残る地域にあって、たとえばメジュゴリエには孤児を引き取る施設がある。ただの孤児院とは異なり、敷地内にある複数の家で、子供たちとボランティアが家族のように暮らす。この運動を始めたのは、メジュゴリエの聖母に惹かれた修道士である。
この施設には、子供たちが作った作品を販売するお土産売り場があるが、それらのモチーフのほとんどは聖母の出現である。
1980年代にイタリアの修道女が始めたものだが、世界的な広がりを見せ、メジュゴリエにも支部が作られた。こうしたコミュニティや運動は、メジュゴリエが聖母出現の聖地であるからこそ、同地で開花したと言えるだろう。
聖母出現はインパクトのある出来事であるからこそ耳目を集め、同時に新たなカリスマを生み出しかねない。メジュゴリエは、カトリック教会の組織性と政治性が強く刻印された場所なのである。
週刊現代より
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