同じ趣味を持つ方、実は結構いると思うのですが、私は昔から星空を眺めるのが好きでした。少年時代など、安心感とも浮遊感とも違うなんとも不思議な感覚を楽しみながら、飽きもせず星空を眺めていたものです。
今の私が物理学者などという謎の立場にいるのもそんな趣味と無関係ではない気がします。
そんな少年時代のある日、例によって星空を眺めていた時のことです。ふと視点を移すと、さっきまで枝の先にあった星がいつの間にやら枝の影に隠れているのに気付きました。
星が動いたのです。
知識としては知っていたことですが、「これが星が動くということか~!」と非常に興奮したのを今でも憶えています。腑に落ちる感動を学んだ瞬間だったのかも知れません。
星たちの動きは面白いものです。太陽は24時間で空を1周しますが、星座を作る星の周期は24時間よりもほんの少しだけずれていて、そのずれは365日で元に戻ります。季節によって星座が移り変わるのはそのためです。
そんな星々の中で月と惑星だけは特別です。月は約28日周期で満ち欠けを繰り返し、惑星達はまるで惑うように星座の間を移動します(これが「惑星」という命名の由来です)。
こうした星々の動きは、我々と地続きの文明だけでなく、姿を消した古代の文明にも記録が残っています。時間がゆったりと流れ、星々が今よりもずっと近くに見えていた時代、きっと人々は少年時代の私以上に星空を眺めていたに違いありません。
そうした人々にとって、ここで述べた程度のことは毎朝太陽が昇るのと同じレベルの共通認識だったはず。星たちが動く理由に想いを馳せるのもごく自然な成り行きだったことでしょう。
こうした星空の動きを説明するために最初に登場したアイディアは、地球は動かず、その周りを他の星々が回っているという、いわゆる天動説です。
星が動くのを目の当たりにしている人から見れば極めて素直な発想です。特にヨーロッパ文化圏では、キリスト教会が支持したこともあって、長らく標準的な宇宙観として受け入れられていました。
そんな中で正反対の主張をしたのがコペルニクスです。1543年、彼は自らの書物の中で、宇宙の中心は太陽で、地球をはじめとする惑星達は太陽の周りを回っているという主張を展開しました。いわゆる地動説です。
天動説と地動説という(一見)矛盾したアイディアが並びました。あなたはどちらが正しいと思いますか?
「何をアホなことを」という声が聞こえてきそうです。今の時代、本気で天動説を主張したりしたら正気を疑われかねません。地球が太陽の周りを回っているというのはそのくらい疑う余地もない常識になっています。
ですが敢えて問います。素直な発想とも言える天動説よりも、一見ひねくれた地動説の方が正しいとあなたが考える根拠はなんでしょう?
どちらも支持理由は同じ
ですが、時代が移ると状況も変わります。望遠鏡が発明され、観測技術が向上し、天文現象の細かい部分が見えるようになるにつれて、天動説も地動説も新しい観測結果を合理的に説明するために改良を余儀なくされました。
その際、地動説は基本的な構造をほとんど変更することなく観測に対応したのに対し、天動説は極めて複雑な変形が必要になりました。同じ結果が出るならシンプルな説明を好むのは人の性というもの。地動説が受け入れられ始めたのはこの時期です。
そして17世紀、地動説はケプラーによって精密科学と呼べるレベルにまで昇華され、さらには、ニュートンがその背後に万有引力の法則を見出しました。これが決定打です。
強力な予言能力に加えて、天体から石ころに至るまであらゆる物体を支配する「重力」という物理法則との整合性が取れたことで、地動説は決定的なものとなりました。
地動説が支持されるようになった背後にはこうした地道なプロセスがあったのですが、ひとつだけ強調させて下さい。16世紀以前に天動説が支持された理由と17世紀以降に地動説が支持された
理由は同じです。
観測される現象が客観的・合理的かつシンプルに説明出来ること。これに尽きます。これが科学です。
よく誤解されますが、科学の目的は真理を探求することではなく、現実を説明することです。ですから、天動説は神秘学で地動説は科学、という認識は間違いです。天動説と地動説も共に、その当時の合理的な判断として採用された科学です。
このように、科学の正しさというのは時代によって変わり得ます。そしてこれは「天動説の敗北・地動説の勝利」という一見正しそうな認識についても例外ではありません。実は21世紀現在、この認識は既に過去のものなのです。
天動説と地動説の本質的な違いは、地球が止まっていると考えるか、太陽が止まっていると考えるかです。改めて問います。「止まっている」とは一体どういうことでしょう?
道を歩く人は誰から見ても動いていて、椅子に座っている人は誰から見ても止まっている。これが私たちの通常の認識です。
ですがこの時、私たちは暗黙の内に「地面」を基準に定めていることに気付いているでしょうか?
もしも私たちが宇宙空間にいたとして、果たして絶対的な意味で「止まっている」とか「動いている」というのを決められるでしょうか?
この素朴な疑問に端を発した歴史ドラマをここに綴れないのは大変残念ですが、それは拙著『宇宙を動かす力は何か』(新潮新書)に譲りましょう。
結論を言うと、私たちの宇宙には何かを「止まっている」と決められるような絶対的な基準は何一つ無い、というのが、20世紀前半に人類が到達した理解です。「止まっている」というのは、見る人が基準を決めて初めて意味を持つ概念です。
このように、何を止まっていると考えるかは人間の都合なので、それによって物理法則は変わりません。であれば、太陽と地球のどちらが止まっていると考えても結論が変わるはずはありません。
この認識に到達した今、天動説と地動説はどちらも正しいのです。私たちは間違っているから天動説を捨てるのではなく、正しいけれど複雑なので通常は使わない。これが21世紀を生きる我々の理解です。
もちろん、ここで述べた宇宙観が完成形であるはずはありません。私たちがこの世を去った後、子供たちは未来の世界でさらに別の「正しい」宇宙観で世界を眺めるのでしょう。
それが一体どんな景色なのかわかりませんが、生きている間にその片鱗でも見られることを夢見つつ、私は今夜も星空を眺めるのです。 週刊現代より
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