【台湾】鉄道を通した日台友好の影にある秘話
近年、日台の鉄道を通した友好提携のニュースをちらほらと見かけるようになりました。以前のメルマガでも紹介しましたが、中には、西武鉄道、京急電鉄、東武鉄道、台湾鉄路4社局合同イベントなどという大掛かりなものもありました。
● 西武鉄道・京急電鉄・東武鉄道・台湾鉄路4社局合同イベント 2017年1月27日(金)より「日台縦断!鉄道スタンプラリー第2弾」を開催します!
今年で開業10週年を向かえる台湾の新幹線「高鉄」は、日本の新幹線技術を用いて造られたことはよく知られています。2015年には、乗客の伸び悩みで経営破綻の可能性がありましたが、公的支援を得ることで危機を乗り越え、現在は「公有民営」となっています
● 台湾新幹線、開業10年で記念式典 日本の新幹線技術を採用
日本と台湾の間の人的交流は年を追うごとにさかんになり、2016年には年間600万人以上(台湾から日本へ429万人、日本から台湾へ200万人)の観光往来がありました。とくに、台湾の人口は2,300万人ですから、台湾人のじつに6人に1人が訪日したことになります。
● 4/27 戎総領事の講演「九州と台湾の強固な信頼関係」
もちろん日本からの訪台も増え続けており、とくに九州・山口から台湾への高校生修学旅行は2014年に12校・1,200人だったものが、2016年には32校・5,000人にまで拡大、海外の修学旅行先としてはトップになっています。
600万人以上の観光往来のなかで、とくに鉄道関係は「人気沸騰」の一言に尽きます。日本・台湾の両国で同好会までつくられ、鉄道旅の推進役ともなっています。
台湾で人気の鉄道といえば、世界三大登山鉄道として有名な阿里山鉄道があります。戦前から阿里山は、日本の技師・小笠原冨二郎が発見した樹齢3,000年のタイワンヒノキが有名で、神木とされてきましたが、戦後はあまりに観光客が多いため腐敗が進み、1998年に切り倒され、現在は二代目の神木になっています。
阿里山鉄道は、日本統治時代に活躍した河合鈰太郎(1865~1931)という人物の貢献によってできたものでした。
日本領台初期、日本は「地球最後の秘境」でもあった台湾の自然、民族、風習などを探検・調査していきました。その結果、台湾の地勢、地貌、自然と社会の姿が、次第に明らかにされていきました。
この時期の日本軍人や学者らの台湾探検・調査は、台湾のみならず、東アジアと東南アジアの自然と社会を研修するための基礎となり、その後、近代産業を育むための資料として、多大な歴史的貢献を果たしています。たとえば、シロアリなどの害虫研究が成功しただけで、産業が数倍にも成長。こうした実例は非常にたくさんあります。
そのひとつが、森林研究だったわけです。阿里山の原始林には多くの巨木が存在し、檜の宝庫でもあることは知られていましたが、木材搬出の方法が見つからず手つかずのままにしてありました。ちょうどそんな時、ドイツに留学していた河合鈰太郎と、外遊中の後藤新平が出会います。そのとき河合は、後藤に台湾の森林開発についての献策を語りました。
これを機に、河合博士は帰国後の明治36(1903)年、後藤に請われて台湾林業行政に参画することとなり、阿里山の実地調査に乗りだしたのです。阿里山森林資源開発のために河合がまず検討したのが、山岳鉄道の利用でした。河合鈰太郎は、林学者、ことに森林利用学に精通した人物です。東京帝大農学科を卒業後、林学博士号を取得。ドイツとオーストリアに留学、森林利用学を学び、後の日本森林利用学の権威となりました。
帰国後の河合は、東京帝大農学科の教授も務めるとともに、台湾総督府民政長官であった後藤新平に招かれ、渡台した際に阿里山の森林鉄道敷設に尽力したのです。
河合の学問的関心は広く、漢学と独語が堪能で、文才もあり、晩年になってからは哲学も研究しました。専門分野の林学では第一人者で、山林史にも興味を持っており、『測量学』『木材識別法』などの著書があります。
彼は、日本産主要広葉樹の肉眼識別法、木材強度および物理的性質の研究をはじめ、森林開発・利用に新境地を開きました。
そもそも阿里山森林の発見は明治29年11月13日でした。竹山撫墾署長、斉藤音作、本多静六林学博士が率いる27人の新高山(モーリス山)登山隊が、東埔から八通関ルートを通って登頂する途中に、本多博士は台湾紅檜の標本を採取しました。
それを東京に送り、東京帝大松村任三教授に研究してもらった結果、明治34年に新種として認定され、「台湾紅檜」と命名されたのです。その後石田常平が阿里山原住民の引率で、広大な阿里山の檜木大森林を発見しました。これに驚いた総督府は、翌年から石田に加え小西成幸、小笠原冨二郎、小池三九郎の4名を調査に出したのです。
さらに明治35年、河合鈰太郎の実地調査を委託し、阿里山開発の計画を作成したことから、樹高36メートル超、幹周り18メートルにも及ぶ長大材が出ることが分かったのでした。
具体的には、海抜2,000メートル以下は暖帯林で、それ以上は紅檜、2,300メートルは扁柏と紅檜の純林、2,700メートルには栂、高根五葉が混じったような状況で原生していました。
前述の、小笠原冨二郎が発見した阿里山神木は、樹高50余メートル、地面部樹幹34メートル、直径6.6メートルを超える推定樹齢3,000年の巨木でした。
総督府は約160平方キロメートルの檜の大森林を入念に調査・計算しました。その結果、檜の巨木のなかには台湾紅檜15万5,783本、台湾扁柏15万2,482本もあると判明。以来、阿里山森林の巨木伐採が始まったのです。
阿里山鉄道は、その木材運搬のために建設されたものでした。はじめ藤田組が林業調査と鉄道敷設の計画起工を請け負いましたが、明治41年1月、工事半ばにして中止となり、その後の事業は総督府に継承されました。そしてついに、大正4(1915)、総督府の手によって本線の開通となったのです。
明治39年~45年の6年をかけて、河合を中心に鉄砲水や資金難の困難を克服しながら、全長72キロ、高度差2,160メートルに及ぶ日本初の山岳(登山)鉄道をみごと完成させたのでした。これは当時としては、世界三大登山鉄道のひとつとして話題となったほどの大事業でした。
河合はその後、台湾北部の太平山や満蒙の森林開発事業にも携わりました。昭和元(1926)年に東京帝大退官後は、木炭研究で煉炭を発明し、その健在ぶりをアピール。昭和6年に逝去した際には、訃報が阿里山鉄道起点の大都市嘉義にも伝わり、官民あげての盛大な追悼式が行われたほどでした。その3年後、河合の功績を讚え、阿里山寺(現在の慈雲寺)境内に「琴山河合博士旌功碑」が建てられました。
阿里山鉄道は木材を運搬するために敷設されましたが、日本は単に伐採するだけではなく、保護にも貢献しました。日本時代の森林保護の実態は、当時の小学生の「論文集」でも見ることができます(東京新宿区の台湾協会文庫にも保存されています)。
国民党政府時代、台湾の自然は次々と破壊され、木が盗伐されていきました。日本統治時代のような保護政策などを行おうとしなかったため、そのために禿山が増えてしまいました。
中国人は森を破壊しましたが、日本は共生の道を選んだのです。もしも阿里山鉄道に乗る機会があれば、沿線の美しい木々を眺めながら、日本人の先人たちの偉業に思いをはせていただければと思います。 MAG2NEWSより
どうして台湾と韓国ではこうも違うのであるか。親日の台湾、反日の韓国、韓国の旅行に行くくらいなら、台湾に行く方が良いのではないかと思うのは私だけではないでしょう。
日本で震災などがあれば、多額の支援金を提供してくれる。日本も台湾に何かあれば支援金を出さなければならないと思う。
ぼちぼちと生きているので、焦らず、急がず、迷わず、自分の時計で生きていく、「ぼちぼち、やろか」というタイトルにしました。 記載事項は、個人の出来事や経験、本の感想、個人的に感じたことなど、また、インターネットや新聞等で気になるニュースなどからも引用させていただいています。判断は自己責任でお願いします。
2017年7月1日土曜日
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