2017年6月2日金曜日

韓国はベトナムで何を為したのか─経済発展と殺戮そしてライダイハン

「あのころは、韓国社会自体が混乱していたんだ。ベトナム戦争に参戦したから経済は発展し、今の韓国がある。ベトナムには感謝しているよ」

2011年10月、韓国の慶尚北道(キョンサンブクド)亀尾(クミ)市にある朴正煕(パク・チョンヒ)体育館で開催された「大韓民国越南戦参戦者会第47回記念式典(ベトナム戦争に参戦した韓国退役軍人の集会)」に参加した元韓国軍猛虎部隊のキム・ジェソンさん(61)=当時=は、ゆっくりと言葉を紡いだ。

1960年代の韓国は、50年に始まった朝鮮戦争で壊滅的な被害を受けたために、休戦の53年にはアジアの最貧国グループの一つになっていた。

 
貧国を脱却したい韓国。1961年5月のクーデターで権力を掌握した朴正煕国家再建最高会議議長は、クーデター直後に「民衆苦を至急解決し、自立経済基盤の確立を目標として、総力を尽くす」と発表した。

朴氏は後に第5~9代大統領を務め、第18代の現・朴槿惠(パク・クネ)大統領の父である。
強権的な政治を行いながら経済開発政策を推し進め、国内資金の調達によっての経済建設を試みたが、政府が期待したほどの資金を調達することができず、外貨導入による経済建設に頼るしかなかった。しかし、当時の韓国は国際信用度が低いうえに、国際市場では国内企業の知名度がまったくなかったため、外貨導入は厳しい局面に立たされる。

そんな折の1964年8月、ベトナム北部のトンキン湾で、北ベトナム軍の哨戒艇が米軍の駆逐艦に魚雷を発射したとされる「トンキン湾事件」が起きる。米国はベトナムに軍事介入をはじめ、翌65年2月に北爆を開始した。

朴正煕政権は日本が朝鮮戦争で高度経済成長のきっかけをつかんだことをよく知っていた。ベトナム戦争を経済成長の絶好の機会と捉え、韓国を豊かな国に変えるべく、韓国軍戦闘部隊のベトナム派兵を決定する。
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キム・ジェソンさん (C)村山康文

派兵は、64年9月の医療班やベトナムにテコンドーを普及させるための教官など非戦闘先遣部隊から始まった。戦況が悪化していくにつれ、65年10月には1万8500人余の戦闘部隊を本格的に投入。その数は韓国軍が撤退する73年3月までに、延べ32万5517人になり、米国に次ぐ大量派兵となった。

朴正煕政権は、派兵と引き換えるように「経済援助」というカードを日米両国から引き出していく。1963(昭和38)年12月、「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)」の締結に向けて当時のジョンソン米大統領に働きかける。そして、李東元(イ・ドンウォン)外務部長官とブラウン駐韓米大使との間で66年3月に交わされた「ブラウン覚書」に基づき、開発借款供与の約束を取り付けた。

日米両国からの支援による経済建設にこぎつけた韓国。ノンフィクション作家の野村進氏は「コリアン世界の旅」(平成九年)に、韓国軍元上等兵の次のような発言を書き綴っている。

「韓国がベトナム戦争に参戦したのは、世界の自由主義を守るためだとか言ってましたけど、本当はカネのためなんですよ。カネ目当てなんだから、早い話がアメリカの“傭兵”ということですよね」

米国は、ベトナムに派兵されたすべての韓国兵に戦闘手当を払い、その大半が韓国本土に送金されたという。

韓国から南ベトナムに向かったのは、兵士だけではなかった。「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」を合言葉として、国内よりも高い賃金目当てに韓国人労働者も現地へ赴いた。商社、建設、サービス業を主力として、技術者や労務者らも1965年から相次いで海を渡る。

また、韓進(ハンジン)、現代(ヒュンダイ)、大宇(デーウ)、三星(サムスン)などの韓国「大財閥」もいわゆる「ベトナム特需」により、基礎が形成された。韓国軍のベトナム参戦がもたらした経済への影響を研究している静岡大学、朴根好(パク・クノ)教授の「韓国の経済発展とベトナム戦争」(平成5年)によると、1965年から72年までの米国が韓国に与えた「ベトナム特需」の総額は10億2200万㌦で、実質的には日本が「朝鮮特需」で得た利益をはるかに上回っている。

GNP14倍、輸出29倍に

ベトナム戦争期の韓国への援助は、米国からの「ベトナム特需」以外に、日本からの支援も大きな位置を占めている。

65(昭和40)年6月22日、日韓の間で国交正常化を目的として締結された日韓基本条約。第一条において「三億㌦を十年の期間にわたり、無償で供与する」「二億㌦を額に達するまで低金利の貸し付けを行う」としている。韓国はベトナム戦争時代、この大部分の資金を国内の高速道路やダム、地下鉄建設などのインフラ整備に使用した。

ベトナム研究者の吉沢南氏は、歴史学研究会編「日本同時代史④高度成長の時代」(平成2年)の中で「もっとも注目すべきは、14年間も難航しつづけた日本と韓国の交渉がここにきて急転直下妥結にいたったことである。日韓両国『国交正常化』が急がれた背後には米国の事情があった」と述べている。

ベトナム戦争に介入した米国にとって、戦争拡大のために膨張した戦費はドル防衛策と矛盾するため、対韓援助の「肩代わり」を日本に求めた。当時の佐藤栄作首相は当初、日韓基本条約に乗り気ではなかった。しかし、内閣発足後まもなくの65年1月に訪米し、ジョンソン大統領と会談してからは一転、条約締結に 向け積極的に動き始める。

同2月17日、椎名悦三郎外相を韓国に派遣し、慌ただしく条約の仮調印をすると、それに合わせたかのように翌月、韓国政府は戦闘部隊の第一陣をベトナムに送り込んだ。

「ベトナム戦争への韓国軍派兵と韓日条約(日韓基本条約)はリンクされていたに違いない」(朴根好「韓国の経済発展とベトナム戦争」)=年表。
「ベトナム戦争がなければ我々は今ここにいることはできない。京釜(キョンブ)高速道路やソウルメトロはもちろん、我々個人の生活水準の向上などに貢献してくださった朴正煕大統領の功労は知るべきだ。同時に、ベトナムの国民らと亡き同士に感謝しなければならない」と、大韓民国越南戦参戦者会中央部のオ・ヨンラク会長(65)は第47回記念式典の壇上で語った。
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オ・ヨンラク韓国越南戦参戦者会中央部会長 (C)村山康文
韓国は日米両国からの資金援助により、65年からベトナム戦争終結までの十年間で、国民総生産(GNP)が14倍に、保有する外貨や外国為替が24倍、輸出総額が29倍に跳ね上がり、いわゆる「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げた。
韓国国内は右肩上がりの経済発展に潤う一方、韓国兵らはベトナムの地で一体何をしたのか。
 
知られざる韓国軍の虐殺の数々
 
64年9月の先遣隊に続き、翌年10月には韓国軍戦闘部隊の青龍部隊(海兵第二旅団)と猛虎部隊(首都師団)が、同12月には青龍部隊と白馬部隊が、さらに66年4月と9月には猛虎第二六連隊と白馬部隊(第九師団)が次々とベトナムに上陸。韓国軍戦闘部隊の多くは、ベトナム中部のニントゥアン省からダナン市にかけて、海岸沿いを走る国道1号の主要都市に駐屯した。

韓国軍は「共産主義と戦うため」「朝鮮戦争の際に『自由諸国』が韓国に援助してくれた『恩返し』のため」という公式的な名目を掲げ、米国の「傭兵」としてベトナムで「まじめに」働いた。この結果、多くの罪もないベトナムの民間人の命を奪うこととなった。

ベトナム戦争中に共同通信のサイゴン特派員をしていた亀山旭氏。あるとき、韓国軍を視察した韓国の著名な言論人が「韓国軍がまじめに戦っていることが唯一の救いだ」と亀山氏に話す。それを受けて「韓国軍が反共の意気に燃えて解放戦線の兵士やその住民たちと〝まじめ〟に戦い、〝まじめ〟に殺したことが救いようのない悲劇だったのではないか」と、亀山氏は「ベトナム戦争―サイゴン・ソウル・東京―」(昭和47年)で表現している。

「まじめ」に戦い、「まじめ」に殺した韓国軍戦闘部隊は、ベトナムに上陸後、数々の過ちを生んだ。
 
その一つに、ベトナム中部のいたるところで繰り広げられた韓国軍による民間人虐殺事件が挙げられる。韓国軍による虐殺地は百カ所近くにのぼり、犠牲者の数は1万~3万人とされる(北岡俊明、北岡正敏「韓国の大量虐殺事件を告発する」平成26年)。

ベトナム戦争時、駐越韓国軍野戦司令部が置かれていたカインホア省ニャチャン市から、北へおよそ90㌔の省境にあるカー峠を越えるとフーイエン省に入る。農業、漁業、林業などの第一次産業が六割を占めるフーイエン省は、省都のトゥイホア市を離れるとすぐにのどかな田園風景が広がる。刈り入れた稲を山積みにしたリアカーが、水牛にのっそりと引かれているさまを見ることができる田舎町だ。

1966年1月2日(旧暦65年12月11日)、この田舎町の小さな村で悲劇は起きた。韓国軍は朝7時頃、フーイエン省ドンホア県ホアヒエップナム社ブンタウ村に奇襲攻撃を仕掛けた=地図。

近くにいたおじに手を引かれ、その場から逃げきったグエン・ティ・マンさん(68)=取材した2014年6月時点=は当時を振り返る。
 
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ブンタウ村虐殺を最近のことのように振り返るグエン・ティ・マンさん (C)村山康文

「あのころ、ブンタウ村の住民は50人余でした。そのうち37人が、あっという間に殺されたのです。男たちは捕まれば殺されると思い、真っ先に村から逃げました。まさか婦女や子供には手を出さないと思っていたら、韓国兵は残っている村人を一カ所に集めて、ひとりずつ撃ち殺していったのです」

乳房を削ぎ性器を銃剣でかき回し、子供を股裂き、串刺し

韓国軍がフーイエン省に駐留を始めたのが65年12月26日(旧暦12月4日)。ブンタウ村で起きた虐殺は韓国軍が駐留を始めて十日も経っていなかった。

さらに4カ月と経たない66年5月14日(同3月24日)、ブンタウ村から3㌔ほど西にあるドンホア県ホアヒエップナム社ソムソイ村でも韓国軍による虐殺事件が起きた。当時9歳だったファム・ディン・タオさん(57)=同=は集落から百㍍ほど離れた場所で牛の放牧をしていたときに、虐殺の様子を目の当たりにする。
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ブンタウ村の「憎悪碑」は1975年建立。韓国軍による虐殺があった村の多くに「憎悪碑」「慰霊碑」が建てられている (C)村山康文

「午前10時頃のことでした。韓国兵は不意を突いたかのように、あらゆる場所から村に突入しました。陸からはもちろん、ヘリからも。おそらく兵隊は300人以上いたと思います。そのとき、私と父以外のすべての村民42人が殺されました。私の家族や親戚17人も含まれています」

目に大粒の涙を浮かべたタオさん。

「私は突然の出来事に驚いて、畦道を走って逃げました。逃げている時に、畦道で破裂した擲弾銃(てきだんじゅう)の破片を顔や足に被弾しました。そのショックで意識を失ったのです。気が付くと、村の近くの病院で韓国軍に拘束されていました」

意識が戻ったタオさんに対して韓国軍の通訳が「共産党の基地を教えろ」と何度も尋問する。しかし、タオさんは「子供だから知らない」と言い張ったという。

「当時、子供ながらに韓国軍がソムソイ村でしたことを許せませんでした。釈放された数年後、私は韓国兵を皆殺しにしてやろうと思い、南ベトナム解放民族戦線の少年遊撃兵になりました。でも、その後しばらくして米軍に捕まりました。この顔の傷は韓国兵が発射した擲弾銃の破片の傷と、米軍に捕らわれたときの拷問でできた傷。つまり、生涯背負わなければならない『恨み』の傷です」
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ソムソイ村虐殺を逃れたファム・ディン・タオさん(右)と父ファム・チュンさん。タオさんの口元の傷痕が惨劇を伝える (C)村山康文

フーイエン省では韓国軍による虐殺地域が省内のあちこちに点在している。同省の村々で2年にわたる聞き取り調査を行い「フーイエン省の歴史書」を編纂したフーイエン新聞のファン・タン・ビン編集長(54)=同=は「韓国軍は66年から68年にかけて、北はビンディン省境にあるクーモン峠から南のカー峠の海側全域に駐留し、フーイエン省の至るところで1563人を虐殺しました。そのほとんどが婦女や子供、老人などの罪もない民間人です」と語る。
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「フーイエン省の歴史書」を編纂したファン・タン・ビン編集長 (C)村山康文

「虐殺をした村での韓国軍の行動は、とても正気の沙汰とは思えません。婦女を輪姦し、乳房をナイフで切ったあと、女性器を銃剣でかき回し、殺害した。乳児の足を持ち、カエルの股裂きのように裂いた。一人の韓国兵が持つ銃剣に、輪投げのように子供を投げ落として殺害したなど、耳を疑うような証言をいくつも聞きました」(ビン編集長)。
 
年ごろの娘を皆の前で輪姦し射殺

「百人のベトコンを逃がしても一人の民間人を保護せよ」。ベトナム戦争中、蔡命新(チェ・ミョンシン)初代駐越韓国軍最高司令官の「至上命令」が書かれた看板が、韓国軍が駐留していたベトナム中部のあちこちに立てられていたという。しかし、その命令に従った韓国兵は、ごくわずかだった。
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「百人のベトコンを逃がしても一人の民間人を保護せよ」の看板の写真を持つ元猛虎部隊の韓国兵 (C)村山康文

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ビンアン社にある壁画は虐殺の様子を生々しく伝える (C)村山康文
韓国軍はフーイエン省の北に接するビンディン省でも虐殺を行った。66年2月13日から3月17日(旧暦1月23日から2月26日)にかけて起きた、ビンディン省タイソン県ビンアン社(注①)の韓国軍によるベトナム最大の虐殺事件。一カ月余の間に村全体で1925戸の住宅が破壊され、1004人の命が奪われた。

中でも66年3月17日(同2月26日)にビンアン社のゴザイ集落で起きた「ゴザイの虐殺」は凄まじい。わずか2時間足らずで集落の住民380人を韓国軍は虐殺したとされる。現在、ビンアン社にある韓国軍による虐殺慰霊廟の片隅に、過去を忘れないようにと「ゴザイの虐殺」慰霊碑が建立されている。
 
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ビンアン社「ゴザイの虐殺」の慰霊碑。殺された380人の名前が刻まれている (C)村山康文

ゴザイ集落にあるタイヴィン村で、腕や足に銃弾や手榴弾の破片の傷を負いながらも奇跡的に命を取り留めたグエン・タン・ランさん(62)=同2月=が、当時の様子を心憂い表情で語った。

「百人以上の韓国兵が村に押し入ってきたのは、朝食を取ろうとしている時だったと記憶しています。各家から引きずり出された村人は一カ所に集められました。そして、村人の中から年ごろの娘を見つけた韓国兵が、娘の長い髪を引っ張って集団から引き離し、皆の目の前で輪姦を始めたのです。数人の兵士が順に事を済ませると、娘は容赦なく撃ち殺されました。その惨劇を見て発狂した村人らが韓国兵に襲い掛かろうとすると、次々に撃ち殺されていきました」
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タイヴィン村虐殺を目の当たりにしたグエン・タン・ランさん。今も銃弾や手榴弾の破片が腕や足に残る (C)村山康文


韓国内で史実を葬り去る動き

韓国軍による無差別殺戮はフーイエン省やビンディン省だけにとどまらなかった。クアンガイ省のソンティン県などや、クアンナム省フォンニャット村・フォンニ村、ハミ村など、さらにカインホア省やダクラク省、ニントゥアン省でも無抵抗な民間人の虐殺があったとされる(「韓国の大量虐殺事件を告発する」)。

韓国軍による1万人から3万人にも及ぶ大量虐殺。1968年3月16日に米陸軍のウィリアム・カリー中尉(虐殺を命令)率いる米兵部隊が、ベトナム中部のクアンガイ省ソンミ村(現ティンケ村)で村民504人の命を奪った「ソンミ村大量虐殺事件」は世界中の多くの人に知られているが、韓国軍がベトナム戦争時代に行った大量殺戮行為の詳細はあまり知られていない。

それどころか、韓国軍がベトナムのいたるところで民間人を虐殺していた事実さえ知らない人も多い。

なぜだろうか。

米軍による民間人虐殺事件(ソンミ村大量虐殺事件)は事件から9日目に、虐殺を知った南ベトナム民族解放戦線の中部ベトナム委員会が「ソンミ村における米兵の犯罪行為を激しく糾弾する緊急宣言」を採択し、同4月16日にハノイ市で公表したことに加え、虐殺の現場に居合わせた複数の米兵が軍上層部に事件の内容を報告。翌69年9月に「ソンミ村大量虐殺事件」の見出しで米国メディアが書き立てたことなどにより、広く知られるところとなった。
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フォンニャット村とフォンニ村の住民74人がこの場所で、無抵抗のまま虐殺された (C)村山康文

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ハミ村の慰霊堂。慰霊碑裏面の碑文には国花の蓮をデザインした蓋がされている (C)村山康文
一方、韓国軍による民間人虐殺事件に関しては、1990年代後半にベトナムの大学院へ留学していたク・スジョン通信員が、韓国軍による虐殺に関する内部文書をベトナム当局から入手。その情報を基にして徹底的に調査し、韓国の左派紙ハンギョレ新聞が発行する週刊誌「ハンギョレ21」99年5月6日号で「韓国軍はベトナムで民間人の大量殺戮をしていた」とスクープする。

しかし、2000年6月27日に起きた韓国退役軍人会のメンバーによるハンギョレ新聞本社への激しい抗議活動など、史実を消し去ろうというソンミ村虐殺事件とは全く反対の動きが起きた。そのためか、韓国軍によるベトナム民間人虐殺の情報は、あまり知られていない。
 
強姦とライダイハン
 
韓国軍がベトナム戦争時代に犯した罪は「民間人虐殺行為」以外にも「ライダイハン」の問題がある。ライダイハンとは、「ライ」がベトナム語で混血を表し、「ダイハン(大韓)」は韓国を意味する蔑称。現在、ベトナム戦争時代にできたライダイハンの数は、最小1500人(朝日新聞平成7年5月2日付)から最大3万人(釜山日報2004年9月18日)と推計されている(注②)。
ライダイハンができた原因には「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」を合言葉として流入した韓国人労働者とベトナム人女性が結ばれてできたケースもあるが、韓国軍による強姦でできたケースも少なからずあった。

ベトナム戦争時、ビンディン省トゥイフック県のフックタン地区にできた韓国軍施設でウエートレスをしていたヴォー・ティ・マイ・ディンさん(59)=同2009年9月時点。19歳のころに施設内の食堂で韓国兵に輪姦され、誰の子かわからないライダイハンである長男、ヴォー・スアン・ヴィンさん(39)=同=を身籠った(注③)。
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「あのころのことは、もう思い出したくありません」と語るヴォー・ティ・マイ・ディンさん (C)村山康文

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ライダイハンのヴォー・スアン・ヴィンさん (C)村山康文
「軍施設で働き始めて3、4年が経っていたころです。ある日、人気のない食堂で後片づけをしているときに突然、数人の韓国兵に背後から襲われました。恐ろしくて声をあげることもできないでいると、次々と無理矢理に私の中に押し入ってきました。その時にできた子が、ヴィンです」と、マイ・ディンさんは当時の様子を息子の前で静かに語った。

日本は昭和7年の第一次上海事変の際に派兵先での軍規を逸脱した強姦を防止する目的で、初めて公娼としての「慰安婦」を利用したとする説がある。「慰安婦」がいたから強姦事件がなくなったとは必ずしもいえないが、当時の陸軍参謀副長、岡村寧次大佐(終戦時は支那派遣軍総司令官)が「海軍にならい、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである」と回顧録に記している(秦郁彦「慰安婦と戦場の性」平成11年)。

日本軍が衛生や待遇などの監督面で関与した「慰安婦」と、韓国軍のベトナム戦争での性暴力の違いについて、元韓国挺身隊問題対策協議会の尹貞玉(ユン・ジョンオク)初代共同代表は、「女性・戦争・人権」八号(「女性・戦争・人権」学会編2007年)で次のように述べている。

「日本軍『慰安婦』とベトナム戦の性暴力のもっとも大きな違いは二世の問題である。『慰安婦』は計画的かつ制度的に行った犯罪であるが、ベトナム戦における性暴力は、参戦軍人たちが戦争中に犯したものであるため二世が生まれるケースが多い」

尹氏の「慰安婦」に関する評価はともかくとして、戦時の軍隊の女性に対する性行動において、日本軍の「慰安婦」に対するものと、韓国軍がベトナムで行った行為は、次元が異なっている。


韓国の未来への礎は

韓国軍のベトナム参戦から五十年の節目となった2014年9月25日、「大韓民国越南戦参戦者会第五十回記念式典」が、韓国・ソウル特別市松坡(ソンパ)区にある蚕室(チャムシル)室内体育館で開かれた。全国の退役軍人とその家族、政治家や韓国に嫁いだベトナム人女性、また、今回初となった在韓米軍関係者など約2万人(主催者推計)が参加した。
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越南戦参戦者会第50回記念式典。約2万人(主催者推計)が参加した (C)村山康文

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同式典には在韓米軍も初めて参列した (C)村山康文
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同式典には韓国に嫁いだベトナム人女性も。近年、同様の女性が増えている (C)村山康文
式典では朴槿惠大統領が映像メッセージで「皆さんが若いころ、国に貢献してくださったおかげで、今日の韓国の平和と繁栄の礎を築いたのです」と退役軍人らを激励したものの、戦時中の日米両国からの支援に関してはもちろん、ベトナムの人々に対しての非人道的な行いに具体的に言及することはなかった。

韓国兵に輪姦され、ライダイハンを産んだヴォー・ティ・マイ・ディンさんは「あのころのことは、もう思い出したくありません」と呟き、ソムソイ村で虐殺を逃れたファム・ディン・タオさんは「韓国兵がやったことは、毎年、家族の命日が近づくと涙が出て、体が熱くなります」と、怒りに震えながら話す。

そして、タイヴィン村で一命を取り留めたグエン・タン・ランさんは「ベトナム政府の人たちは『これからのベトナムは韓国との外交が大切なので、過去を忘れる努力をしてくれ』と話します。でも、私の眼に焼き付いたあの惨劇を、どうしたら忘れられようものですか」と、苦しそうに言葉を絞り出す。

この幾つもの「呟き」「震えながら」「絞り出す」言葉と、証言の時にこらえられずに溢れ出す涙を見ていると、韓国軍から残虐行為を受けたベトナムの誰しもが、あの日の惨劇を必死で忘れようと、日々、努力しているように感じてならない。

韓国は、ベトナム戦争終結から30年後に、ようやく一部の民間人が虐殺やライダイハンに対する謝罪の意味合いから支援を始めた。2005年9月、韓国軍による虐殺があったフーイエン省ドンホア県ホアヒエップチュン社に「韓越友好病院」を設立。また近年、在越韓国企業がライダイハンの子供たちへの奨学金進呈など始めている。

政府レベルでは、1998年に当時の金大中(キム・デジュン)大統領(第15代)が、訪越した際に「不本意ながら、過去の一時期、ベトナム国民に苦痛を与えたことを遺憾に思う」と謝罪した。しかし、保守派のハンナラ党(現セヌリ党)副総裁だった朴槿惠氏は、金大中大統領の謝罪に対し「大統領の歴史認識に不安を抱く。軽はずみな発言は参戦者会の名誉を著しく傷つけた」と強く非難した。
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同式典で流された朴槿惠大統領の映像メッセージは退役軍人らを激励するも、ベトナムでの非道行為には触れなかった (C)村山康文

朴槿惠氏は自身が大統領に就任して7カ月後の2013年9月9日に初めて訪越し、ベトナムのチュオン・タン・サン第5代国家主席と会談する。訪越の目的は、あくまで韓国からベトナムに供与されるODAによる各分野でのパートナーシップを重視するだけのもので、韓国軍がベトナム戦争時に犯した過ちに関しての謝罪の言葉は一切なかった。

それどころか2週間後の同24日に朴槿惠大統領は国連総会の一般討論で演説し、直接的にこそ日本や「慰安婦」の批判はしなかったものの、「戦時の女性に対する性暴力は時代や地域を問わず、明らかに人権や人道主義に反する行為だ」と、自国軍がベトナムでしたことを棚に上げ、遠回しに日本を批判した。

韓国人の「名誉」や韓国の「国益」を重んじる朴大統領親子。ならば今、韓国政府がすべきことは、自らの「歴史の事実」に目を向け、新たな道を切り開くための努力なのではないのだろうか。

注① 当時のビンディン省タイソン県ビンアン社は、14の村から構成。このうちタイヴィン村、タイビン村、タイアン村などの一部集落をまとめて「ゴザイ集落」と呼んでいた。

注② 「ライダイハン」は、厳密には1992年にベトナムが韓国と国交を結ぶまでにできた子供の呼称で、92年以降にできた韓国人とベトナム人女性の間の子供は「新ライダイハン」と呼ばれる。ただ、近年は韓国人とのハーフ(他国も含む)の総称として「ライダイハン」が用いられることも多い。

注③ ヴィンさんの戸籍証明(ID)上の年齢は36歳。ベトナムでは徴兵を逃れるため、年齢を偽ることが稀に行われた。貧困などの理由で出生証明書をのちに取得することもある。
iRONNAより

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