2017年6月27日火曜日

ミッドウェー海戦は、日本人が生んだ技術に日本が敗けた戦いだった

今年6月、太平洋戦争の転機となった「ミッドウェー海戦」から75年を迎えた。日本の敗戦へのきっかけとなったこの近代史上最大の海戦に、「現代日本に通じる大切な教訓が隠されている」と指摘するのは、防衛装備庁技術戦略部の藤田元信氏だ。

最近、新著『技術は戦略をくつがえす』(クロスメディア・パブリッシング)を発表した藤田氏は、75年前の海戦における日本の失敗を分析した上で、技術と戦略の関係を学ぶことの重要性を説く。

日本で無視され、米国が評価した技術

ミッドウェー海戦は、お互いの艦艇を視界に入れずに戦った、史上初の海戦であったと言われています。そして、アメリカ軍の勝利に決定的な役割を果たしたのは、電波の反射を使って目標を探知する兵器である「レーダ」でした。

レーダには、発振器とアンテナが欠かせません。じつは、アメリカをはじめとした諸外国のレーダ開発には、日本人の発明が利用されているのです。ご存知でしたか?
その代表的なものが、「八木・宇田アンテナ」と「分割陽極型マグネトロン」です。

八木秀次教授
八木・宇田アンテナの発明者の一人 八木秀次教授(出典:随筆集[1953])

八木・宇田アンテナは、その名前のとおり、八木秀次と宇田新太郎という日本人研究者の研究成果でした。魚の骨のような簡単な構造で、優れた性能(鋭い指向性と高い利得)が得られることが利点です。いまでもテレビの受信アンテナとして広く使われているので、皆さんも見たことがあるのではないかと思います。
 
このアンテナは、日本では誰にも注目されなかったものの、1926年に英語で論文を発表したところ、米国で大いに賞賛されたと言われています。

分割陽極型マグネトロンもまた、日本人研究者である岡部金治郎が、1927年に発表したものでした。

大出力マグネトロンの陽極
岡部金治郎らの発明をきっかけとして、小規模ながら、日本国内でもマグネトロンの研究が行われていた。写真は、のちに戦艦「大和」にも搭載された二号二型電探(対水上用)に使われたマグネトロンの陽極と同等のもの。(public domain)

分割陽極型マグネトロンは、それまでにアメリカで開発されていた単陽極マグネトロンでは不可能だった、高い周波数の発振(マイクロ波を発生)を可能としたうえ、高効率でした。レーダの実用化に向けて、性能を飛躍的に高める研究成果でした。

早くも1920年代に、日本人研究者により八木・宇田アンテナと分割陽極型マグネトロンという、画期的な新技術が生み出されていたにも関わらず、日本陸海軍はその研究成果をレーダの開発につなげることはできませんでした。

たとえば海軍では、「これからの海戦にレーダが必要かどうか」という議論が盛んになされた一方、事業化に進むための具体的な検討はずっと低調だったようです。一方、アメリカとイギリスをはじめとする諸外国では、これらの研究成果を早期に事業化し、通信機器やレーダの開発に応用していました。

シンガポールの戦利品から発見

1942年5月中旬、「シンガポールの戦利品で、現地で理解できないものがある。電波兵器のようなので、調査に来てほしい」との依頼を第5陸軍技術研究所から受け、日本電気と東芝の社員からなる民間の調査団が組織されました。

調査団が現地で調査したところ、件の電波兵器は、日本人が発明した八木・宇田アンテナであったことが判明しました。日本では誰も顧みなかった八木・宇田アンテナを、イギリスがみごとに兵器に応用していたことは、関係者にとって衝撃だったと言われています。

同じころ、日本陸軍は、押収した文書(通称「ニューマン文書」と呼ばれる)の中に、YAGIという単語が出てくることを発見しました。そこで捕虜に質問したところ、「それはそのアンテナを発明した日本人の名前だ」と教えられ、そのとき初めて八木・宇田アンテナの存在を知ったとも伝えられています。

じつは、日本の海軍技術研究所や陸軍技術研究所でも、小規模ながら、レーダ技術の研究は行われていました。ところが、軍上層部には、レーダの研究開発に対する理解者が少なく、レーダの研究開発は遅々として進まなかったと言われています。そのため、大東亜戦争の開始時点でも、日本のレーダは実用化にほど遠い段階にありました。
 
ようやく、海軍で初めて実用レベルのレーダが作られたのは、開戦から数か月が過ぎた、1942年3月のことでした。このときは波長の異なる2種類のレーダが試作され、戦艦「伊勢」「日向」に搭載されました。それぞれに長所・短所があるものの、どちらも一定の機能・性能を有することが確認されました。

ミッドウェーで払った高い代償

1942年6月、ミッドウェー島に向かった日本海軍の空母機動部隊には、レーダを装備した艦艇は1隻もありませんでした。実験艦として、レーダを搭載していた戦艦「伊勢」「日向」は、ミッドウェー島から遠く離れたアリューシャン方面に派遣されていました。

一方、ミッドウェー島付近で、日本海軍の空母機動部隊を待ち受けるアメリカ海軍の主要艦艇には、対空捜索レーダCXAMが装備されていました。さらに、ミッドウェー島に設置された固定式のレーダも稼動状態にありました。

対空捜索アンテナ
アメリカ海軍は、主要艦艇にレーダを搭載していた。空母エンタープライズ(CV-6)の艦橋に、対空捜索レーダCXAMが装着されていることが分かる。ミッドウェー海戦直前の、1942年5月の撮影。(public domain)

そのため、ミッドウェー島付近で日本軍の攻撃を待ち受けていたアメリカ軍は、日本軍の艦載機の接近をレーダでいち早く察知し、奇襲を避けることができたのです。

レーダの実用化により、日本海軍の戦略の前提となっていた、空母と艦載機を中心とした奇襲攻撃は、もはや成立しなくなっていました。

そのことに気がつかない日本海軍は、ミッドウェー島に有効な打撃を加えられなかったばかりか、反撃してくるアメリカ海軍の艦載機を直前まで発見できず、主力の空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)と約300機の艦載機、そして多数の熟練兵を失いました。

こうして、日本軍は、自らのレーダの技術開発の深刻な遅れを、高い代償により知ることとなったのです。

炎上する空母「飛龍」
ミッドウェー海戦において、レーダを持たない日本艦隊は、艦載機を飛ばして敵を探さなければならず、レーダを駆使したアメリカ軍に対して苦戦を強いられた。写真は、アメリカ軍機の攻撃を受け、炎上中の空母「飛龍」。(public domain)

日本の戦略家が技術を学ぶ意義

ミッドウェー海戦における日本の敗北は、一般に、機械故障による索敵機の発進の遅れや、現場の混乱を誘引した指揮官の判断に原因があると論じられています。確かに、偶然や現場での判断により左右された部分もあったでしょう。

しかし、ミッドウェー海戦を、「技術」という観点で捉え直すとすれば、ミッドウェー海戦は、レーダ技術が、日本軍の戦略を破壊した戦いだったと総括できるでしょう。

戦いの様相を一変させるレーダをいち早く取り入れ、使いこなしたアメリカ軍と、要素技術の研究において国内にアドバンテージを有しつつも、レーダの必要性の議論に終始し、事業化を推進しなかった日本軍の能力には、大きな差が生まれていたのです。

日本でも、ミッドウェー海戦の後、それまで低調だったレーダの研究開発は、おおいに奨励されました。しかし、長年の蓄積を必要とする研究開発の遅れは、ついに取り戻すことができませんでした。
 
「技術」という観点から、ミッドウェー海戦の敗北へとつながったレーダの研究開発の問題点を考えると、以下の2点に集約されると考えられます。

(1)未知の要素が多いレーダの研究開発に関し、上層部の理解が得られなかったこと
(2)国内の科学技術イノベーションを国防に生かす仕組みが未成熟であったこと

1930年代において、レーダの研究開発は未知の要素が多く、きわめてリスクの高いテーマの1つでした。技術的な内容を理解できる人間も、レーダが戦いにどのような効果をもたらすのか、という部分を論じることができる人間も、国内にわずかしかいなかったうえ、双方が対話をする機会も、ほとんどありませんでした。

国内にどのような技術があり、どう育成し、どう活かすのか、といった長期的な視野で技術マネジメントを行うことができる、組織や人材が欠けていたと言ってもいいかもしれません。

これらの問題点から、現代日本にも通じる教訓を得るとすれば、長期的な技術マネジメントの視点の欠如が、致命的な結果をもたらすことがあるということでしょう。

様々な新技術が、市場や社会のあり方を支配するようになった現状を鑑みると、組織運営を担うリーダ、戦略家が技術を学ぶ意義はますます高まっているものと思われます。技術者もまた、自らの職責の範囲を超えて、技術が戦略に与えるインパクトについて、もっと意識すべきかもしれません。

ミッドウェー海戦の敗北から75年、ビジネスの最前線に立つ一人ひとりが、技術と戦略の関係をいま一度考え直すことで、新たな未来が切り拓けるのではないでしょうか。
現代ビジネスより 

戦前の軍部もレーダーへの理解があれば、ミッドウェーでの大敗北もなかったかも知れません。その前にその技術を活用する事を考えなければなりませんが。今では常識なことが、戦前では理解されなかったと言うことでしょう。日本人が発明した技術というのも、何かこの戦争が敗れると言うことを暗示しているみたいです。

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