2017年6月9日金曜日

天皇になろうとした日本人

正確に言えば織田信長は天皇になろうとしたのではない、それを超えた存在である神になろうとしたのである。

日本は神の子孫である天皇が治める国である。この絶対的ルールが確立された飛鳥時代以降、中国や西洋のような王朝交代は日本で無くなった。壬申(じんしん)の乱のように天皇家内部の政権争いはあったが、天皇家の血を引かない人間が、天皇を殺して自ら天皇になることは絶対に不可能になったのである。なぜなら天皇家以外の人間は「神のDNA」を継いでいないからだ。

そこで藤原氏は自分の娘を天皇家に嫁がせ、生まれた子供を天皇にするという手段で何とか権力を掌握した。その究極の形が関白で、関白とは本来臣下であるはずの藤原氏が実質的な皇族扱い(敬称は殿下)となり、いわば準皇族が天皇の権限をほとんど代行するという形で天皇家の権限を奪ったのである。

これに対して新興勢力である武士は、天皇から武士団の棟梁(とうりょう)が征夷大将軍に任命されることによって、実質的に日本の統治権を委任されるというシステムを考え出した。これは幕府政治あるいは将軍制と呼ばれるべきもので、だからこそこの制度は幕府の長である将軍、徳川慶喜が天皇家に「これまでお預かりしていた統治権を返還する(大政奉還)」という形で終止符が打たれた。

織田信長像(模本、東大史料編纂所蔵)

織田信長像(模本、東大史料編纂所蔵)

しかし関白にせよ将軍にせよあくまで天皇代理であり、その権限は天皇に由来する。しかも関白は藤原氏の選ばれた家柄(近衛、鷹司など五摂家)、将軍は武士の中でも源氏の嫡流しかなれないというルールも生まれた。だから鎌倉幕府の源氏将軍を実質的に滅ぼした北条氏も、源氏に代わって将軍になることはついにできなかった。

その源氏の嫡流と称する足利氏が北条氏を滅ぼして将軍の座を奪ったのが室町幕府である。だが、さまざまな構造的原因によって室町幕府の統制力は失われ、本来武士の棟梁であるはずの将軍の命令を誰もがきかなくなり、大名同士が勝手に私闘を繰り返したのが戦国時代である。

多くの人が誤解しているが、いくら戦国時代だからといって藤原氏でもない源氏でもない人間がいきなり関白や将軍にはなれない。ましてや、そうした旧来の仕組みを全く利用せず新しい権力体制を築こうと思えば、日本においては「神になる」しか方法がないのである。繰り返せば天皇はなぜこの国の主権者なのか、それは天皇は天照大神という神の子孫であり、その神の子孫がこの国を治めるというルールが古代に定まってしまったからだ。関白あるいは将軍も、その天皇の代理であるからこそ権威がある。

逆に言えば全くゼロから権威を作るためには、神の子孫である天皇家の権威を超えなければならない。だから、結局「神の子孫」ではなく自ら「神」になるしかない。織田信長は論理的に考えれば当然の結論の実現を目指したのである。

信長が自分を神として礼拝するように命じたということは、彼を近くでよく観察していた宣教師ルイス・フロイスなども記録していることなのだが、一昔前は「信長シンポジウム」などで「信長は神になろうとしていたんです」と言ったら専門の歴史学者の人々に笑いものにされた。そんなことがあるわけないじゃないかとおっしゃるのである。そういう人々に私が言いたいのは信長の後継者が、神になっているということである。

言うまでもなく徳川家康のことだ。日光東照宮の御祭神は東照大権現、すなわち家康である。信長は神になれず、秀吉は死後1度は神になったが(豊国大明神)家康にそれを取り消され(後に明治に復活)、家康だけが完全な神になることに成功した。

確かに日本とは人間が神になれる国である。しかし、それは菅原道真のように死後周囲の人間がその霊威を畏れ神として祀(まつ)り上げた場合だ。生前自ら宣言して神になろうとしたのは織田信長が最初なのである。ただし、どんなことでもそうだが開拓者は最初必ず挫折する。なぜなら誰もやったことのない行為を成功させるためには試行錯誤を重ねなければいけないからだ。フロイスが記しているように信長は自分の誕生日を聖日として、自分を御神体とする宗教施設に礼拝するように命じた。いきなり自分が神だと宣言し「オレを礼拝せよ」と命じたのである。

このころ信長が造った安土城には奇妙な「装置」がある。地下1階に石造りの宝塔があるのだ。大乗仏教最高の経典とされる法華経には釈迦が最高の真理を説いたときに、地下からそれを祝福するために宝塔が出現したという名場面がある。要するに「信長=釈迦」ということである。また、その「信長神殿」である安土城から「上から目線」で見下ろす本丸部分に、最近の発掘調査で天皇の御所とよく似た構造の建物跡が発見された。信長はここに天皇を動座させ、自分が天皇より上の「神」であることを天下に知らしめるつもりでいたのだろう。しかし、本能寺の変ですべての目算は狂い信長は神にはなれなかった。

その失敗を近くでつぶさに見ていたのが家康である。まず、この「自己神格化」プロジェクトのために専門家を雇った。天海僧正だ。このブレーンの言うことをよく聞いて、彼は東照大権現の「神学」つまりなぜ家康が神なのかという説明を作らせた。

ライトアップされ、宵闇に浮かぶ日光東照宮の国宝「陽明門」。約40年ぶりの大規模な修復作業を終え、金箔や極彩色がひときわ輝く=4月29日午後、栃木県日光市の日光東照宮(飯田英男撮影)

ライトアップされ、宵闇に浮かぶ日光東照宮の国宝「陽明門」。約40年ぶりの大規模な修復作業を終え、金箔や極彩色がひときわ輝く=4月29日、栃木県日光市(飯田英男撮影)

権現とは、そもそも神がこの世を救うために人間の姿を取ってこの世に下りてくるものである。長い乱世で多くの人が苦しんでいるのを見た「神家康」は、その苦しみから人々を救うため人間の姿でこの世に生まれ、苦心の末に天下を統一するという大偉業を成し遂げ役目を果たしたので天に戻られた、今はそこにおられる。というのが東照大権現の神学である。しかも「東照」は大和言葉で読めば「アズマテラス」と読める。つまりこれまでの日本はアマテラスの子孫である天皇家が治めていたが、これからはアズマテラスの子孫である将軍家が治めるという形を作ったのだ。だから徳川の天下は約300年も続いた。

逆に言えば、最初に信長が神になり天皇を超えようと志したからこそ、家康は成功したわけで、それが歴史の連続性ということだ。この点から見ても、信長が本気で神になり天皇を超えようとしていたことはまぎれもない歴史上の事実なのである。

しかし信長の視点から見れば、「家康神学」には大きな弱点があった。それはほかならぬ東照大権現という神号を朝廷に奏請して、つまり天皇からもらってしまったということだ。天皇からもらったのならば、天皇家と徳川家は対等とはいえず、天皇家の権威の方が上であることを認めてしまったことになる。この弱点が幕末に「天皇家の方が尊いのだから将軍家よりも天皇家に忠を尽くすべきだ。つまり討幕は悪ではなく正しいことだ」という勤皇思想の隆盛を生みだすことになり幕府は滅んだ。

家康ですら天才信長の「自己神格化計画」を完全に達成することはできなかったのである。iRONNAより

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