核・ミサイル開発を続ける北朝鮮。国際社会は制裁強化に動いているが、隣国・韓国は様子が異なる。9月21日には北朝鮮に対し800万ドル相当の「人道支援」を行うと発表。過去の経済支援が核・ミサイル開発に流用されているにもかかわらず、なぜ韓国はまたカネを渡すのか。その背景を読み解くには、韓国政治の歴史を知る必要がある。
■だまされても続く「太陽政策」
北朝鮮が6度目の核実験を行い、国連安全保障理事会が全会一致で制裁決議を採択してから10日後の2017年9月21日、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権は北朝鮮に800万米ドル相当の「人道支援」を行う決定を下しました。折しもニューヨークでは、日米韓3カ国の首脳会談が開かれており、ドナルド・トランプ米大統領と安倍晋三首相は、「今それをする時期か」と、慎重な対応を要請したと報じられています。
文政権の決定は、典型的な「太陽政策」といえます。イソップ寓話(ぐうわ)の『北風と太陽』から名を取った「太陽政策」とは、北朝鮮に対し、北風(圧力)ではなく、太陽(支援)によって臨もうとする韓国の政策です。最初に、「太陽政策」を打ち出したのは金大中(キム・デジュン)大統領(在任1998年~2003年)で、その後は盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領(在任2003年~2008年)に引き継がれました。
金大中、盧武鉉の両大統領は「太陽政策」に基づき、和解と巨額の経済支援(裏金による秘密支援も含まれます)を進めました。しかしこの政策は、北朝鮮が核兵器を保有するに至るという最悪の結果を招き、韓国国内はもちろん、国外の識者からも批判を浴びました。いわば韓国は北朝鮮に「だまされた」わけですが、なぜだまされてもなお、北朝鮮に融和的な政策が復活してくるのか(しかも、国際社会が連帯して制裁強化に動いている最中にです)。それを理解する鍵は、やはり韓国の歴史の中にあります。
■李承晩政権が倒れ、南北統一へと高揚する世論
1960年、李承晩(イ・スンマン)大統領の独裁と恐怖政治に耐えかねた国民は、ついに大統領の退陣を叫びはじめます。全国にデモや暴動が広がり、84歳になっていた李承晩はこれらを抑え切れず、とうとうハワイへ亡命しました(四月革命)。
民主主義的な新政権が発足し、国民の政治活動も活発になりました。さまざまな市民団体や労働組合がつくられ、集会や街頭デモが連日繰り広げられました。学生運動も活発化します。韓国の学生たちは若者特有の理想に燃えていました。「自分たちの手で民族の統一を実現する」「同じ民族同士なのだから、話せば理解し合える」多くの学生がこのように考え、北朝鮮と韓国の統一を目指したのです。
韓国の学生たちは、北朝鮮の朝鮮学生委員会と交渉し、南北学生会談を板門店で行うことを取り決めました。韓国政府はこれを了承しませんでしたが、学生たちは政府を無視しました。李承晩政権を四月革命で退陣に追い込んだ学生たちは、やや自信過剰に陥っていたのです。
この頃の韓国は、政治も経済もボロボロでした。他方、北朝鮮は統制が効き、ソ連の支援もあり、経済は比較的安定していました。このような状況で南北統一の交渉を進めれば、北朝鮮に主導権を握られた「赤化統一」の可能性が高くなります。いわば自国を北朝鮮に明け渡すようなものでしたが、韓国の学生運動家たちには、それがわからなかったのです。
こうして、板門店で南北学生会談が開催されることになり、「行こう!北へ!来たれ!南へ!会おう板門店で!」をスローガンに、学生たちが集まりました。ソウルを出発し、板門店へ向かった学生デモは10万人に達しました。一般国民もこれを熱狂的に支持し、すぐにでも南北統一が実現できるという、錯覚に基づく民衆感情が生まれました。
「同じ民族同士なのだから、話せば理解し合える」。こうした感情は、今日まで一貫して多くの韓国国民の中に地下水脈のようにヒタヒタと流れており、それがまさに「太陽政策」の原動力になっているのです。
■民主的だが無力だったポスト李承晩政権
「話し合えばわかる」という無邪気な寛容さは、政治のリアリティーの中ではより深刻な事態を招くことがほとんどです。しかし、当時の張勉(チャン・ミョン)政権は、南北学生会談の危険性について批判的な論評をするのみで、これを取り締まることはしませんでした。李承晩後の民主化政権は、まったく無力でした。南北和解を訴える学生デモに加え、賃上げを要求する労働運動も激しさを増し、全国でストライキが多発、経済機能がマヒしていきます。1960年後半からはインフレが加速し、韓国経済は崩壊の危機にひんしていきます。
李承晩は恐怖政治によって、国を統率しました。朝鮮戦争前後の混乱と失政の責任を李承晩個人に押し付けることは簡単なことですが、李承晩の恐怖政治がなければ、当時の韓国は空中分解し、あっさりと北朝鮮に喰(く)われていたかもしれません。実際、李承晩が退陣した後の韓国の社会混乱はひどいものでした。理想主義の学生や左傾化した労働者などが、いわば国を滅ぼしかけていたのです。
■朴正熙のクーデターで再び独裁体制に
こうした危機的な状況に際し、事態収拾に動いたのが軍部でした。朴正熙(パク・チョンヒ)少将や金鍾泌(キム・ジョンピル)中佐など陸軍の若い士官が「5・16軍事クーデター」を起こします。1961年5月16日午前3時から、クーデターは決行され、わずか2時間で首都は制圧されました。これ程スムーズにクーデターが成功した大きな理由として、兵士たちが腐敗していた軍上層部の命令ではなく、朴正熙少将の命令に従ったことが挙げられます。
朴正煕はクーデター後、直ちに中央情報部(略称KCIA、初代部長は金鍾泌)を組織し、この諜報(ちょうほう)機関に国民を監視させ、不穏分子を徹底的に取り締まりました。
KCIAは学生に対しても容赦ない取り締まりを行い、拷問しました。KCIAににらまれれば前途はなかったため、学生たちは萎縮しました。「板門店で会おう」の合言葉で知られた学生運動も、ぴたりと鎮まりました。KCIAは朴正煕の独裁を支える中枢機関であり、国民からは、恐怖政治の執行機関として恐れられました。
アメリカ(ケネディ政権)は当初、朴正煕らの軍事クーデターを非難していましたが、すぐに手のひらを返し、支持を表明します。その後、朴正煕は自身の政党である民主共和党を組織し、自分の息のかかった者を国会に送り込んでいきます。
1963年の大統領選挙で、朴正煕は大統領に就任します(在任1963年 ~1979年)。その後、全斗煥(在任1980年~1988年)を経て盧泰愚(在任1988年~1993年)まで、3代の軍人大統領政権が30年続くことになります。
■韓国政治を貫く対立軸
韓国の現代政治史は、理想主義者と現実主義者の対立を軸に、今日まで推移してきました。前者は北朝鮮と「話せばわかり合える」と考える左派勢力であり、今日の文在寅大統領もこの系譜にあります。後者は北朝鮮を脅威と捉え、その封じ込めを戦略的に考える勢力で、朴正煕ら保守派の系譜です。
文在寅大統領は、盧武鉉を師と仰いでいます。文在寅は駆け出しの弁護士だった頃、7歳年上の盧武鉉と2人で法律事務所を開設し、苦楽を共にしました。盧武鉉政権下で、文在寅は大統領秘書室長にまで登り詰め、盧武鉉の右腕といわれました。
大統領になった文在寅が、師である盧武鉉の「太陽政策」を引き継ぐのは、日本をはじめ諸外国がどんなに首をかしげようと、自明のことなのです。 ライブドアニュースより
0 件のコメント:
コメントを投稿