2017年7月10日月曜日

こうして元号は「時代を映す鏡」になった

昨年8月、今上陛下が「象徴天皇としてのお務め」に関するお言葉の中で「2年後には平成30年を迎えます」と話し出された。しかも『文藝春秋』10月号によれば、「天皇は(宮中)参与会議の席で『平成30(2018)年までは頑張る』と仰(おっしゃ)り、それまでに(譲位の)目途をつけてほしい、というお気持ちを伝えて」おられたという。

あれ以来、「平成」という元号および次代の新元号への関心が高まっている。そこで今回は、そもそも元号(年号)とは何か、その来歴と今後の在り方などについて、史実と管見の一端を略述させていただこう。
 
古代中国から伝来した漢字文化
 
人類が発明した文字には、表音文字と表意文字がある。アルファベットなど表音文字は一つ一つ音を表すにすぎないが、漢字など表意文字は一字一字が意味を表す。

その漢字を発明したのは古代中国である。それを駆使することにより、儒学が記録され、仏教が漢訳され、法典が編纂(へんさん)された。しかも、その多くが日本に伝来している。
 
そうした漢字文化の一つが年号(元号)にほかならない。古代中国では、前漢の武帝(在位BC141~BC87)が、それまで帝王の即位から何年と数えていたのを改め「建元何年」というような形で、年数の上に漢字の称号、すなわち年号を冠するようになった。

その年号は、皇帝の勅定する暦に記され、統治国内だけでなく周辺諸国に頒(わか)たれた。そこで頒暦(はんれき)を受けた国々では、中国の年号をそのまま使っていた(使わされた)。後漢ごろから中国に朝貢していた「倭国」も、その例外ではない。

しかし、大和朝廷(王権)により日本列島がだんだんと統一されてきた倭国では、まず5世紀初めころ儒学を、ついで6世紀中ごろ仏教を、さらに7世紀初めころ律令法を受け入れると共に、やがて独自の年号も定めて使おうとする独立意識が高まった。その結果、初めて作られたのが、譲位の新例を開かれた皇極女帝4(645)年の「大化」年号である。

ただ、当時は強大な唐帝国の威力をはばかって独自の年号を公的に使うことが難しく、この「大化」も5年後に定められた「白雉」年号も広く用いられていない。しかし、7世紀後半、天智・天武両天皇のリードで中央集権的な国家体制づくりが進むと、ようやく文武天皇5(701)年3月「大宝」という年号が建てられた。しかも、その年号を冠した「大宝律令」と称する最高法典の中に、次のごとく明文化されるに至った。

およそ公文(公式文書)に年を記すべくんば、皆年号を用ひよ。
 
それによって、これまで多く用いられてきた干支(十干十二支の組み合わせ)によるか、何天皇何年という表記が、ほとんどすべて「年号」で示されるようになった。この事実は、「天皇」を至上の権威と仰ぐ律令国家の全国民が、年号の公用を通じて統合される。と共に、中国王朝や朝鮮諸国などに対して、「日本」が名実ともに独立国家であることを堂々と表明できるようになった画期的な意味をもつ。
 
天皇により勅定されてきた年号

この年号制度は、大宝から今日まで1300年あまり一年も途切れることなく続いてきた。しかも、本家の中国で清朝の滅亡(辛亥革命、1911年)とともに廃止され、今や日本にしかない超国宝級の無形文化といえよう。

これが長らく続きえたのは、朝廷が実力をもっていた飛鳥・奈良・平安時代のみならず、幕府が武力で全国を支配した鎌倉・室町・江戸時代でも、立憲公議政体となった明治以降でも、強弱の違いはあるにせよ、常に天皇(すめらみこと=統る尊)が国家・国民統合の最高権威と仰がれながら在位してこられたからである。

それを立証するのが、年号の選び方である。明治以前の年号は、天皇の代始(即位直後)以外に、珍しい吉兆が現れたり、著しい災異が起きたり、また変革年と恐れられた干支の辛酉(かのととり)・甲子(きのえね)の年など迎えるたびに、しばしば改められてきた(一号平均5~6年)。しかし、その改元を発議されるのは、原則として天皇であり、また新元号を公布したのも天皇の詔書である。
 
改元の大まかな手続きは、天皇から発議の御意向を承った大臣が、大学寮などの学者(平安中期以降ほとんど菅原道真の子孫)数名に命じて、漢籍(歴史・哲学・文学の古典)から良い文字案を選ばせる。そこから10個近い案が提出されると、公卿(くぎょう)(現在の閣僚)が会議を開き、文字案の一つ一つについて慎重に審議し(論難と陳弁を繰り返す)、良案3個に絞って天皇に奏上する。それを御覧になった天皇が、その中から最良案を選ぶよう仰せられると、再び審議してベストの一案を決めて再び奏上すると、それを承認することにより「勅定」されたことになる(その際、異論を述べられたり差し戻された例もある)。

ついで、勅命を受けた係官が「改元詔書」の案文を作成し、それを奏上して勅許されたら清書する。その改元詔書は、太政官から全国の国府に伝達され、すみやかに施行されることになっていた。

ただし、中世から近世にかけて、とりわけ江戸時代には、幕府の介入が慣例化している。具体的には、幕府から改元を要請した例が少なくない。また朝廷の学者が提出した文字案を江戸に送らせて、老中が幕府の儒官(林家など)の意見により良案を選んで京都に戻すと、朝廷の会議では幕府の意向に沿った結論を奏上している。さらに新元号の詔書が出ると、それを江戸に送らせ、登城した諸大名に伝達してから新元号を使わせている。とはいえ、それが時の天皇陛下により勅定されたものであるという原則に変わりはなく、その権威を幕府側が利用したことになろう。
 
明治以降の「一世一元」と「元号法」

やがて幕末に近づくと、全国的に尊王意識が高まる。年号の在り方についても、天皇の一代に一号(一世一元)にすべきだという意見が、大阪の町人学者中井竹山や水戸の若い歴史家藤田幽谷らによって提唱された。それを公式に採用したのが、慶応4(1868)年の「明治」改元にほかならない。

これを提案した岩倉具視の依頼を受けた議定の松平春嶽は、宮廷儒者から提出された文字案を調べて、三つに絞った案を内裏の賢所(天照大神の神鏡を祀ってある所)に供え、天皇(数え16歳)がくじを引かれて「明治」に勅定された。その出典は『周易』に「聖人南面して天下を聴けば、明に向いて治まる」とあり、8月4日に次のような「改元詔書」が公布されている(これ以後、年号を元号という)。

慶応四年を以て明治元年と為す。今より以後、一世一元、以て永式と為せ。
 
これを受けて、明治22(1889)年『皇室典範』第12条に「践祚(せんそ)(天皇の位を継ぐ)の後、元号を建て、一世の間に再び改めざること、明治元年の定制に従ふ」と定められ、さらに同42(1909)年の『登極令(とうきょくれい)』で次のごとく厳密に規定された。

第二条 天皇践祚の後は、直ちに元号を改む。元号は枢密顧問に諮詢(しじゅん)したる後、これを勅定す。
第三条 元号は詔書を以てこれを公布す。
 
それから3年後(1912)の7月、明治天皇(満59歳)の崩御により大正天皇(満32歳)が践祚されると、直ちに、あらかじめ内閣と宮内省で用意した文字案を枢密院で審議せしめ、全会一致で可決した「大正」を承認して勅定された。そして「明治四十五年七月三十日以後を改めて大正元年と為す」という改元詔書が公布されている。

それと同様に、足かけ15年後(1926)の12月、大正天皇(47歳)の崩御により昭和天皇(25歳)が践祚されると、直ちに改元手続きを経て「大正十五年十二月二十五日以後を改めて昭和元年と為す」という詔書が公布されたのである。

こうして「一世一元」の元号制度は定着したかにみえた。しかし、敗戦後の日本を占領統治したGHQは、昭和21(1946)年明治憲法の全面改定だけでなく、皇室典範と登極令などの廃止を命じた。そのため「昭和」元号は、事実たる慣習として使われたが、次の元号を定める法的根拠はない状態に陥った。そこで、「明治百年」の昭和43(1968)年ころから「元号法」の制定運動が起こり、ようやく同54(1979)年に次のような法文が制定公布されるに至った。

1.元号は、政令で定める。
2.元号は、皇位の継承があった場合に限り改める。
 
この1は、長らく年号=元号を勅定されてきた天皇が、新憲法で「国政に関する権能を有しない」と制約されたため、代わりに政府が「政令」で定めることにしたのである。しかし2で、その元号は「皇位の継承があった場合」に限って改める「一世一元」の原則を続けるとしたところに、大きな意味がある。
 
それから10年後の昭和64(1989)年1月7日朝6時半、天皇(87歳)が崩御されると、10時半に皇太子(55歳)が「剣璽等承継の儀」を経て践祚された。すると政府は、直ちに、あからじめ用意した元号案(三つ)の中から最良の「平成」に決定し、午後2時ころ公表しえたのである(改元の政令は、天皇が国事行為として署名された上で公布され、翌8日午前零時から施行する措置がとられた)。

その出典は、従来と同じく漢籍に拠り、『史記』の「内平らかに外成る」および『書経』の「地平らかに天成る」から二字を取った。しかもこの新元号は「国の内外にも天地にも平和が達成される、という意味」をこめたものと公表されている。

キリスト紀元を「西暦」と称して併用

このように1300年以上の歴史をもつ日本の年号=元号は、いまなお公的制度(「元号法」という法律に根拠をもつ)として存在する。従って、戸籍や出生・婚姻・死亡などの届け出書類、公的な免許証、郵便局・銀行などの通帳など、いずれも元号で統一される。

しかし、一方で21世紀に入るころから、いわゆる西暦を使う人がだんだんふえてきた。全国紙をみても、「元号(西暦)」の欄外標記は今や産経だけしかなく、他は「西暦(元号)」としてあり、本文記事はほとんど西暦となった。これは、いわゆるグローバル化の進む現在(今後も)、西暦の方が前後の通算にも内外の比較にも便利だからであろう。

とはいえ、誰も平気で「西暦」というが、その本質はキリスト生誕紀元である。現に歴史の教科書などで「BC」「AD」と書くのは「Before Christ」(キリスト以前)「Anno Domini」(ラテン語で主の年より)の略称にほかならない。
 
このキリスト生誕紀元は、AD525年、ローマの神学者ディオニュシウスにより提案されたが、キリスト教圏でも普及するのは10世紀以降であり、キリスト教を奉ずるヨーロッパ諸国の植民地拡大などに伴い、世界の多くで使われるようになった。

わが国には、16世紀後半にイエズス会(カトリック)の宣教師らによりもたらされ、いわゆる切支丹版の書物刊行年は「AD」で記されている。また、京都の妙心寺にある著名な塔頭(たっちゅう)、春光院には、かつて「南蛮寺」にあった釣り鐘(国の重要文化財)を所蔵するが、「IHS」(イエス・人類の救い主 Iesus Hominum Salvatorの略、イエズス会の徽章)と共に「1577」と刻まれている。
 
このキリスト紀元を「西暦」ないし「西紀」と証した初見ははっきりしないが、『日本国語大辞典』などによれば、明治2(1869)年に村田文夫(本姓野村)の著した『西洋聞見録』前編に「某皇暦某月々は西暦の某月々たるを知るべし」とある。また翌3年ころ仮名垣魯文の著した『西洋道中膝栗毛』六篇に「頃は西洋紀元千八百七十年」とみえる。

ただ、それが日本の紀年法として公認されたことはない。むしろ『西洋聞見録』のいう「皇暦」は、『日本書紀』の神武天皇即位紀元(略称「皇紀」)であるが、明治元(1872)年の太政官布告に「今般、太陽暦御頒行、神武天皇御即位を以て紀元と定めらる」とあり、同31(1898)年の「閏(うるう)年」に関する勅令も「神武天皇即位紀元年数の四を以て整除し得べき年を閏年とす。」としている。

もちろん、皇紀は史実と数百年のズレがある(私は神武天皇の実在を認めるが、その即位をBC660年に設定したことには無理がある)。従って、今日これを日本の紀元として公用することは適切でない。とすれば、元号以外ではキリスト生誕紀元を「西暦」と称して併用するほかないであろう。
 
しかも、このような元号と西暦の併用には、それ相応の意義がある。前述の通り、日本の年号は、漢字文化として時代の理想を表明し、とくに一世一元の元号は、「国民統合の象徴」と憲法に定められる天皇の在位年数を明示するシンボルである。また、後から振り返れば、「明治時代」とか「昭和時代」というように、その時期の雰囲気を良く表す。一方、いわゆる西暦は、既に世界の大半で(キリスト教国以外でも)使われており、一本の物差し(長尺)として目盛りの年次を特定し、前後の年数を通算するにも便利なことが多い。

つまり、今や日本にしかない元号は、独立国家の文化的シンボルとして大切にしながら、世界的広がりをもつ西暦を文明の利器として併用することが、独自性と普遍性を併せもつ日本人には必要な知恵だと思われる。私はこれからも、無機質な数字の西暦を活用すると共に、表意的な漢字の元号を常用し続けたいと考えている。

尚、詳しくは編著『日本年号史大事典』および単著『年号の歴史-元号制度の史的研究』(共に雄山閣刊)を参照していただきたい。 iRONNAより

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