かつて「不倫は文化」と豪語した芸能人がいましたが、不倫(不貞行為)は、法的には相手の配偶者に慰謝料を払う義務が生じる違法行為です。
誤解があるかもしれませんが、ドラマなどでは妻子のいる男性が、不倫相手の独身女性から「奥さんにバラされたくなければ慰謝料を払って」と脅される場面がありますが、不倫が発覚した場合(男性が自分は独身だと嘘を言っているなどの過失がなければ)、「家庭を壊した」慰謝料を払わなければならないのは女性の方なのだそうです。
昔の日本もこの考えは共通で、厳しい処罰が下されていました。現在、不倫や浮気と呼ばれている行為は江戸時代、「不義密通」と呼ばれていました。
しかも、婚姻関係にある相手以外と性的関係を結ぶ行為すべてを不義密通というので、厳密に言えば独身の男女もこれに該当するのですが、本稿では便宜上、既婚者に限ることにします。
さらにスゴいのは、浮気された夫は、妻とその相手を殺しても「構い無し(罪を問わない)」と、私刑(リンチ)を許していることです。
実際、その事例も古記録には散見されます。寛政の改革で知られる松平定信の家臣だった水野為長が世間の噂や情報を書きとめた『よしの冊子』からいくつか紹介しましょう。
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赤坂の前沢藤十郎の長屋を借りている妻が、太鼓の師匠と姦通していたところ見つけた夫が、その場で二人を「手際克切殺(手際よく斬り殺した)」というエピソードが紹介されています。「手際よく」というニュアンスから、為長はこれを称えていることが感じられますね。
こんな話もありました。江戸の小石川近くに住むある御家人は昨年結婚しましたが、やがて妻が独身の頃からつきあっていた男が自宅に密かに出入りするようになったので、御家人は妻を実家へ帰しました。
その後、離婚の準備をすすめている最中、御家人が妻の実家へ行くと、なんと例の元カレが「妻と戯レ居候(いちゃついているではないか)」。これに激高した御家人は、即座に妻を抜き打ちにして殺害。
すると、元カレはその場から逃走しました。騒ぎに気づいた妻の父が現場を見て叫び声を上げたので、御家人は義父までも斬り殺してしまいます。
この噂を知った為長は、父親まで殺したことに対し、「是はお仕置むづかりかろうふ(これは、どう御家人を裁くか難しいだろう)」と感想を漏らしています。これから推察するとこの御家人は罪に問われることになるのでしょう。
心中大流行
妻にとって不倫はまさに命がけだったはずですから、殺された妻と元カレはきっと心から愛しあっていたのでしょう。それでもふたりは結婚できませんでした。
それは、よく知られているように、基本的に恋愛結婚はできない時代だったからです。男も女も、親や縁者が決めた家格の釣り合う相手と結婚せざるを得なかったのです。
しかし、障害があるほど燃え上がるのが恋心。それは今も昔も変わりません。このためどうしても一緒になりたい場合は、相対死(心中)を選ぶことも少なくありませんでした。
とくに近松門左衛門の『曽根崎心中』が1703年に上演されてから、あちこちで心中事件が続発するようになり、困った幕府はついに1722年に心中物の上演を禁止するまでになったほどです。
とはいえ、相対死も、罪であることに変わりはありません。一方が生き残った場合は死刑。二人とも生き残った場合は、晒し刑に処せられたあと、士農工商から外れる身分に落とされる決まりになっていたのです。
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とくに大坂や梅田では、あまりに心中する男女が多いので、夜中に番人を置かなくてはならないほどでした。
毎晩、数組のカップルがあやしい動きをするので、番人はそれを追い払うのが仕事になり、「心中追払ひ番」と名付けられるようになったといいます。
さらに南畝は、『談笈拔萃』で奇妙な心中事件を紹介しています。大坂の堀川近くの畑で心中をはかった男女が、二人とも生き残って浜の墓という場所にさらされた。二人の番人がそれを監視していたが、二日目の夜、番人らがうとうとしていると、心中した男女がいきなり裸で立ち上がって、「ついたとさ、ついたとさ」と大声を上げて踊り出したのだ。
これに仰天した番人たちはその場から逃げ去り、近くの屋敷へ駆け込んだという。このため翌日は大勢で監視することになったが、男女はジッとしていたという。
このあたりには「狐のおふく」がいるといわれ、人びとはきっと、「おふく」の仕業だろうと噂しあったとか。まるで日本昔話みたいですが、子供向けアニメでは映像化しづらい場面が多いかもしれませんね。
和解金は今も当時も同じ額
ところで、浮気現場を押さえても、小石川の御家人のように、その場で殺すのはなかなか容易ではありません。武士でもよほど剣に自信がなければ難しいでしょう。
浮気現場に遭遇したものの妻や間男を殺さなかった武士の話が、長崎奉行所の判決録『犯科帳』(長崎図書館蔵)に残っています。
彭城茂藤太は、あるとき仕事が早く終わって自宅にもどったら、見知らぬ男が妻といた。不倫相手は、小松貞之進という者でした。
衝撃をうけた茂藤太は、刀の柄に手をかけて2人を殺そうとしましたが、必死に妻がわびたため貞之進を追い出し、妻はそのまま実家にあずけました。
ただ、この話には後日談があります。5日後、茂藤太が松ノ森神社に出かけると、境内の茶屋で人目をはばかりながら寄りそう男女の姿があります。よく見るとなんと、それが妻と貞之進だったのです。
さすがにこれには激高した茂藤太は、すぐさま貞之進を斬り殺しましたが、仰天した妻のほうは脱兎のごとく逃げ去ってしまいました。妻はよほど脚力があったのでしょうか。
その後、意外にも茂藤太は、長崎奉行所から有罪判決を受けることになりました。その行いに落ち度があったというのです。どういうことでしょうか。
当時の武士が体面や世間体を維持することをいかに重視していたかがわかるのではないでしょうか。
体面と言えば、江戸時代も妻の不倫は外聞が良くありません。そこで、ことを表沙汰にすることを避けて相手から慰謝料と詫び状をとって示談にするのが一般的でした。
江戸ではそれを「首代」といって7両2分(現在の50万円程度)を支払うのが慣例でした。余談ですが、現代でも不倫の和解金の相場は50万円程度と以前弁護士の方から聞いたことがあります。時代が変わっても罪の値段が変わらないというのは面白いですね。
話を戻すと詫び状には、相手に対する謝罪と表沙汰にしなかったことへの感謝、慰謝料の額、2度と相手と会わないという誓約が明記され、「もし違反したら表沙汰にしてかまわない」と明記されました。
もちろん表沙汰になれば、不義をおこなった男女は、法にしたがって処刑されることになります。だから慰謝料も首を斬られる代金、つまり「首代」と呼ぶのでしょう。
不倫で出世
ただ、内済がうまくいかないケースもあったようです。再び水野為長が世間の噂や情報を書きとめた『よしの冊子』から紹介しましょう。
銀座に住む幕府の御目見医師・芝田元養の妻は、夫の内弟子と不倫関係になり、夫を殺害しようと毒まで買ったことが発覚しました。しかし、御目見医師という立場もあったからでしょう、元養は示談で済ませようとします。
ところが仲介を頼んだ大家がことの深刻さに驚き、示談するのを承知せず、奉行所沙汰になってしまったのです。しかも運が悪いことに同じ時期に、嫁いでいた元養の娘も男との密通がばれて離縁されていました。
そんなことが重なったからでしょうか、元養は腕の良い医者でしたが、妻と娘の不倫のため、「今後、幕府は元養を召し出すことはないだろう」と為長は述べています。現代風に言えば管理不行き届きということでしょうか。
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これとは逆に不倫によって出世した珍しいケースもあります。金森靭負は、伊予松山藩主・松平隠岐守定国(寛政の改革を断行した松平定信の兄)歌の師匠でした。問題は、靭負の妻の八重崎です。
もともと彼女は松山藩の中老の娘で、城の奥勤めをしており、すでに定国のお手がついていた。ところが靭負は、定国の住む愛宕の上屋敷に出入りして彼に歌を教えているうち、八重崎と密通してしまったのです。
これは、八重崎の実父である中老が、藩主の定国にとっての忠臣であり、この不始末にあたって必死に靭負を守った結果でした。ちなみに八重崎が宿下がりした際、すでに妊娠しており、生まれた子が定国の子か靭負の子かわからないというのがもっぱらの噂だったとか。
権力者に近しい人が罪を犯しても有耶無耶になってしまうのは、昔も今も同じということでしょう。
今回は不倫とその罪についてお話ししましたが、次回は不倫シリーズ第二弾として不倫と離婚についてお話しする予定ですので、楽しみにお待ちください。 現代ビジネスより
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