同年9月のAFCチャンピオンズリーグでは、韓国チーム全北現代の応援スタンドに「日本の大地震をお祝いします」と日本語で書いた横断幕が掲げられた。また2013年8月にはKBS2のテレビ番組で、お笑いタレントが「旭日旗を振った日本の応援団に体にいい福島産さくらんぼを送った」と揶揄し、これを東亜日報など各紙が「よくぞいった」とばかりの評価で報じた。
「その神経を疑う」といった報道が諸国に見られた。韓国人の反日行為は常軌を逸している。こうした非文明性、異常性は世界的な「不可思議」の一つにまでなった。だが彼らは明らかに文明生活を送っており、反日行為は病者ならぬ正真正銘の健常者たちによるものだ。だからこそ「不可思議」なのである。
精神医学者の中井久夫氏は、精神障害というものは、自らの破滅を防ぎ、生き残るための知恵だという観点を示している(「治療文化論―精神医学的再構築の試み」)。私もこの観点を強く支持したい。その上で私が問題としたいのは、これも中井氏の観点の一つなのだが、正常・健常者といわれる人のなかには、病気からほど遠い余裕のある人だけではなく、「他者に依存したり他者や社会を攻撃すること」によって自らの精神衛生を維持している人、中井氏のいう「代償的擬似健常者」が多数いるということである。
「代償的擬似健常者」による常軌を逸した人類最悪の行為が、中世ヨーロッパの魔女狩りやナチスのホロコーストなどだろう。「代償的擬似健常者」が「他者に依存したり他者や社会を攻撃すること」を一挙に極端化していくと、こうした大虐殺が引き起こされることにまで至る。
常軌を逸しているとしかいえない場合の韓国人の反日行為は、大挙して群なす「代償的擬似健常者」によるものと考えればいい。彼らは韓国人に特徴的な心の病に陥った人たちと同じように、韓国人に特有の苦悩やコンプレックスを抱えている。
しかし彼らは、病者のように自らを苛(さいな)むのではなく、他者を苛むのだ。彼らは、他者への依存や他者への攻撃によって、自らの精神的危機を回避しようとする。そこで彼らの反日行為は、病者が示す病像ときわめて近似していく。彼らの反日行為が、非文明性、異常性をもって現れる最大の理由がここにある。
以上のことを前提に、日本人をはじめ外国人には容易に理解できないと感じられている韓国人(韓民族)の反日行為の心理、情緒、精神のあり方の特異性を、韓国人に特徴的な心の病を通して照らし出してみたい。その前に、韓国人との一定の比較という意味から、十分なものではないが、日本人に起きやすいとされる心の病と日本人の性格的な特徴の関係について、一つの事例から簡単に眺めておきたい。
日本人とメランコリー
日本人に起きやすい心の病の代表的なものに「内因性単極性鬱(うつ)病(メランコリー)」がある。「内因性単極性鬱病」は、とくに日本人に顕著に見られるものだが、誰にも起き得るものではなく、ある特定の性格の人に限って発生率が高いことが知られている。
日本人はまじめゆえにメランコリーが起きやすい
特定の性格とは「メランコリー親和型」と呼ばれる性格で、ドイツの精神科医テレンバッハが1960年代に理論化したものである。テレンバッハは「内因性単極性鬱病」にかかった人の性格的な特徴として「几帳面、仕事熱心、堅実、清潔、権威と秩序の尊重、保守的、律儀」を挙げている(木村敏訳「メランコリー・改訂増補版」)。
これはまさしく日本人によくある性格だといってよいだろう。最近亡くなられた経営学者の大野正和氏も、日本人の「働き過ぎ」に関連するとして次のように述べている。
「日本人に多いのは、前うつ病性格(うつ気質)であるメランコリー親和性だ。真面目で几帳面、責任感が強く他人に気を遣う。この性格は、日本の職場では優秀な労働者の象徴である」(「過労死と日本の仕事」ブログ「『草食系』のための日本的経営論」)。
精神科医芝伸太郎氏は、この「メランコリー親和型性格はそのまま日本人一般の性格特徴(を極端にしたもの)に他ならない」と述べ、テレンバッハらとは別に「日本人だからこそわかる」視点から、とても興味深い独自の理論を打ち立た(「日本人という鬱病」1999年)。
芝氏の理論は「お金理論」といわれるもので、概略、次のようなものである。律儀な性格の日本人の多くは、人から借りたものは必ず返さなくてはならないと考える。物品であれ、精神的な好意であれ、地位や名誉を与えられた場合であれ、まるで精神的な貸借対照表があるかのように、「借りたら返す」という原則を貫こうとする。
ちょっとしたミスを犯しても、必ず相手や社会に埋め合わせができるだけの良き行ないをしなくてはならないと考える。
こういう性格の人は、社会に出ると「決して借りをつくるまい」と一生懸命になる。会社では人並み以上に働き、他人に対しては執拗に「お世話」をしようとし、昇進をしようものならさらに時間を無視してまで働こうとする。中年になって高い役職に就いた途端にこの種の鬱病を患う人が、日本人には多いそうである。
こういう人は、家庭生活にもとても生真面目に向かう。ミスをすれば、その挽回を思って、ミスのために会社や相手が失ったもの以上のものを生み出そうと盛んに努力を重ねる。
そこでは、あらゆる人間関係があたかもお金のやり取りであるかのようになっていると芝氏はいう。もちろんそれは、「姑息な金銭勘定の意識」とはまったく異なるもので、逆に「金銭勘定を無視して」がんばってしまうのだ。
そうすることで、自分が自分であることを保つことができている。こういう極端な性格の人は、そのままではいつかはやっていけなくなる。心身ともに疲れてしまうし、何をやっても不十分だと感じられていく。そこで、「自分はだめな人間だ」「だらしない」と深刻に悩み、やがてはメランコリー状態に陥って鬱病を発現するまでなってしまう。これが芝氏の「お金理論」である。
芝氏のいう「お金と同じように人間関係を考える」というのは、物事についての「借りる・貸す」の関係を、それぞれの関係のあり方の個別的な性格を無視し、何でもかんでも普遍的に向き合ってしまっていることを意味している。確かに、日本人にはそうした性格的な傾向をもつ人が多いといえるだろう。
韓国人と火病
韓国人に顕著に見られる心の病が火病(ファッピョン)である。火病は「韓国人にだけ現われる珍しい現象で、不安・鬱病・身体異常などが複合的に現われる怒り症侯群」とされる(米精神医学界「精神障害の診断と統計マニュアル」付録「文化的定式化の概説と文化に結び付いた症候群の用語集」)。
火病は「お腹の中に火の玉があがってくるようだ」といった韓国人に特有な愁訴が特徴で、「怒りを抑圧し過ぎたことによって起きる心身の不調」とされている。
韓国の精神科医キム・ジョンウ氏は、著書「火病からの解放」のなかで、ある中年女性の火病患者の訴えを、次のように記している(要約)。
その女性は長男にだけ関心と愛情が深かった。長男を大学にやってから、今までの自分の生き方があまりにもむなしくて悔しいという気持ちになり、憂鬱な気分がはじまった。その頃は身体的な症状はなかったが、自分には不服な長男の結婚問題がきっかけとなり、突然火病がはじまった。14日の間大声を張り上げて泣く、眠れない、息苦しく胸から顔まで熱が出てくる感じ、喉が渇く、口の中が苦い、右脇腹が痛くてたまにぐらぐらする症状と、腕と足が麻痺する感じ。全身がおかしいという訴えである。
また別の患者は、次のように訴えてきたという。
韓国の精神科医キム・ジョンウ氏は、著書「火病からの解放」のなかで、ある中年女性の火病患者の訴えを、次のように記している(要約)。
その女性は長男にだけ関心と愛情が深かった。長男を大学にやってから、今までの自分の生き方があまりにもむなしくて悔しいという気持ちになり、憂鬱な気分がはじまった。その頃は身体的な症状はなかったが、自分には不服な長男の結婚問題がきっかけとなり、突然火病がはじまった。14日の間大声を張り上げて泣く、眠れない、息苦しく胸から顔まで熱が出てくる感じ、喉が渇く、口の中が苦い、右脇腹が痛くてたまにぐらぐらする症状と、腕と足が麻痺する感じ。全身がおかしいという訴えである。
また別の患者は、次のように訴えてきたという。
何か大きなかたまりが胸のなかで圧迫しているという感じ。ある人に対する憤怒と悔しさが十四年過ぎても消えていない。今もその人を見れば憤怒が吹き出す気持ちになる。いろいろな病院を訪ねたが、誰もわかってくれない。
キム・ジョンウ氏は同書で火病を次のように説明している。
「怒りや悔しさをまともに発散できなくて、無理に我慢するうちに火病になるのです。…略火病も一種のストレスの病気です。しかし違うところがある。一般的にストレス病は急にストレスが表に出る場合が多いのに対して、火病は同じストレスを六カ月以上受けるところが違います。また火病は怒らせる原因、怒りをつくる原因はわかっているけれども、それを我慢して起こすのが特徴です。ストレスを発散すれば離婚したりすることにもなるので、我慢することが多いのです」
キム・ジョンウ氏は同書で火病を次のように説明している。
「怒りや悔しさをまともに発散できなくて、無理に我慢するうちに火病になるのです。…略火病も一種のストレスの病気です。しかし違うところがある。一般的にストレス病は急にストレスが表に出る場合が多いのに対して、火病は同じストレスを六カ月以上受けるところが違います。また火病は怒らせる原因、怒りをつくる原因はわかっているけれども、それを我慢して起こすのが特徴です。ストレスを発散すれば離婚したりすることにもなるので、我慢することが多いのです」
またキム・ジョンウ氏は、火病の原因は恨(ハン)にあると指摘している。
「火病の原因は恨です。弱くて善なる人間が強い人間に感じる劣等意識、葛藤として見えるものです。かつては抑圧的な夫のせいで、女性たちの恨が溜まるしかありませんでした。今では患者の3割は男性で、職場の人間、中年の事業家、定年退職を前にした人たちなどが病院に訪ねてくるようになっています」(同)
日本では怨恨の「怨」も「恨」もだいたい同じ意味で使われていると思う。しかし韓国の「恨」は、韓国伝統の独特な情緒である。恨は単なるうらみの情ではなく、達成したいが達成できない自分の内部に生まれるある種の「くやしさ」に発している。それが具体的な対象をもたないときは、自分に対する「嘆き」として表され、具体的な対象をもつとそれがうらみとして表され、相手に激しく恨をぶつけることになっていく。
キム・ジョンウ氏は火病と恨の関係を次のように述べている。
「火病患者の一部は憤怒が目立って現れませんが、その場合恨が関係する場合が多いのです。原因となるのは、貧困であること、弱者であること、悔しさ、怨痛さ、むなしさ、抑制などが積もりに積もること。症状面では、ため息、涙、苦しさ、胸の中の塊感など。そうした共通的なことが多いという点で、火病は韓国人特有の恨と関係が深いと推定できます」(同)
続けてキム・ジョンウ氏は「火病は、原因と感情反応で歴史的な民族固有の情緒的な恨と共通線上にあることと、時間的経過によって恨が克服されずに病理化されたことを示唆しています」と述べている。韓国人の反日行為はまさしく火病のように、「時間的経過によって恨が克服されずに病理化された」状態であるかのようだ。
恨の多い民族
恨があるから強く生きられる、恨をバネに生きることができるというように、本来は未来への希望のために強くもとうとするのが恨である。そうして生きていくなかで恨を消していくことを、韓国人は一般に「恨を解(ほぐ)す」あるいは「恨を解く」と表現する。うらみにうらんだ末に恨が解けていくことを、大きな喜びとする文化は韓国に特有のものである。
そうした心情の典型を、朝鮮民族の伝統歌謡「アリラン」にみることができる。「アリラン」は恨が解き放たれる喜びを歌った「恨(ハン)解(プリ)の歌」ともいわれる。一般に行なわれている日本語訳で歌詞を紹介すると、その一番は次のようになる。
〽アリラン アリラン アラリヨアリラン峠を越えて行く 私を捨てて行かれる方は 十里も行けずに足が痛む
ここでは親しい人が自分を捨てて去っていく恨が歌われている。哀しい歌詞なのだが、これを喜ばしい気持ちで快活に明るく歌うのである。二番、三番で、次のように恨解へと向かう心情が表現されていく。
〽アリラン アリラン アラリヨアリラン峠を越えて行く 晴れ晴れとした空には星も多く 我々の胸には夢も多い
〽アリラン アリラン アラリヨアリラン峠を越えて行く あの山が白頭山だが 冬至師走でも花ばかり咲く
固い恨があるからこそ未来への希望があるということでいうと、韓国人にとっては生きていることそのものが恨である。自分の今ある生活を不幸と感じているとき、自分の運命が恨になることもある。
自分の願いが達成されないとき、自分の無能力が恨になることもある。そこでは、恨の対象が具体的に何かは、はっきりしていないことが多い。韓国人は、自分のおかれた環境がいかに不幸なものかと、他者を相手に嘆くことをよくする。韓国ではこれを「恨嘆(ハンタ
何とも哀れだ=ソウルの日本大使館前
そこでは、「私はこんなに不幸だ」「いや、そんなのは不幸のうちに入らない、私の方がもっと不幸だ」という具合に、あたかも「みじめ競争」のようになることも少なくない。
ここで特徴的なことは、「自分は何の罪もない正しく善なる者なのに、誰(何)かのせいで自分が恵まれていない」と、一方的に自らを純化し自己責任を回避していることだ。そうやってお互いにストレスを解消し合い、それでなんとかなっていれば火病に罹ることもない。
自分が今おかれている境遇や自分の過去の不幸を題材にして「ああ、私の人生は…」と節をつけて、自前の身世打令(シンセタリョン)(韓国伝統の雑歌)を友だち相手に披露することもよくある。こうした場合の恨は、その対象が曖昧なままなのだが、それだけ、対象を求めてさまよっているのだともいえる。だんだんと、自分の恨を固めている相手、恨をぶつける具体的な対象が欲しくなっていく。
韓国人はしばしば自分たち民族を、「恨の多い民族」と呼ぶ。韓国には「我が民族は他民族の支配を受けながら、艱難辛苦の歴史を歩んできたが、決して屈することなく力を尽くして未来を切り開いてきた」と自分たち民族を誇る精神的な伝統がある。こうした歴史性をもつ「我が民族」が「恨の多い民族」である。
韓国人がキリスト教を受け入れやすい一つの要素は、苦難の歴史を歩んだユダヤ人・イスラエルの民と、自分(たち)の境遇を重ねる意識が強く働くところにある。韓国人とユダヤ人には、どんな罪もない優秀な民族が苦難の歴史を歩んできたという歴史的な共通性がある。ユダヤ人がそうであるように、我が民族もまた神から選ばれた特別の民(エリート)であり、最終的な救済を約束された民である―というように。
実際、このように説く韓国人牧師は多く、韓国がキリスト教を受容した理由の第一をそこに求める論者も少なくない。こうした考えは、すでに韓国の初期キリスト教にあったが、戦後に反日民族主義と結びつき、より強固なものとなっていった。
戦後韓国は、「日本帝国主義の支配」によって、我々は無実であるのに国を奪われ、国土を奪われ、富を奪われ、言葉を奪われ、文化を奪われ、過酷な弾圧下で苦難の歴史を歩まされたという、反日民族主義を国是として出発した。そうした「無実の民」が蒙った「苦難の歴史」、その「誇りの回復」というところで、反日民族主義とキリスト教が一致していく。キリスト教ピューリタニズムとも通じるところである。
欲望・希望・願望といったものが通らずに阻止され、これが抑圧されることで形づくられる「心の凝り」というものがある。情緒的な色合いを強くもつことが特徴で、精神医学ではこれをコンプレックス(観念複合体)と呼んでいる。韓国人が古くからいう「恨が固まる」とは、現代でいえばコンプレックスとしての「心の凝り」が形づくられることに他ならないだろう。
韓国の精神医学者イ・ナミ氏は、著書「韓国社会とその敵たち」のなかで、韓国人は「物質、虚飾、教育、集団、不信、世代、怒り、暴力、孤独、家族、中毒、弱い自我」にわたる12種類のコンプレックスの塊だといっている。そして、このコンプレックスの塊こそが、現代韓国社会に顕著に見られるさまざまな病理現象の原因をなすものだと断じる。
ここで特徴的なことは、「自分は何の罪もない正しく善なる者なのに、誰(何)かのせいで自分が恵まれていない」と、一方的に自らを純化し自己責任を回避していることだ。そうやってお互いにストレスを解消し合い、それでなんとかなっていれば火病に罹ることもない。
自分が今おかれている境遇や自分の過去の不幸を題材にして「ああ、私の人生は…」と節をつけて、自前の身世打令(シンセタリョン)(韓国伝統の雑歌)を友だち相手に披露することもよくある。こうした場合の恨は、その対象が曖昧なままなのだが、それだけ、対象を求めてさまよっているのだともいえる。だんだんと、自分の恨を固めている相手、恨をぶつける具体的な対象が欲しくなっていく。
韓国人はしばしば自分たち民族を、「恨の多い民族」と呼ぶ。韓国には「我が民族は他民族の支配を受けながら、艱難辛苦の歴史を歩んできたが、決して屈することなく力を尽くして未来を切り開いてきた」と自分たち民族を誇る精神的な伝統がある。こうした歴史性をもつ「我が民族」が「恨の多い民族」である。
韓国人がキリスト教を受け入れやすい一つの要素は、苦難の歴史を歩んだユダヤ人・イスラエルの民と、自分(たち)の境遇を重ねる意識が強く働くところにある。韓国人とユダヤ人には、どんな罪もない優秀な民族が苦難の歴史を歩んできたという歴史的な共通性がある。ユダヤ人がそうであるように、我が民族もまた神から選ばれた特別の民(エリート)であり、最終的な救済を約束された民である―というように。
実際、このように説く韓国人牧師は多く、韓国がキリスト教を受容した理由の第一をそこに求める論者も少なくない。こうした考えは、すでに韓国の初期キリスト教にあったが、戦後に反日民族主義と結びつき、より強固なものとなっていった。
戦後韓国は、「日本帝国主義の支配」によって、我々は無実であるのに国を奪われ、国土を奪われ、富を奪われ、言葉を奪われ、文化を奪われ、過酷な弾圧下で苦難の歴史を歩まされたという、反日民族主義を国是として出発した。そうした「無実の民」が蒙った「苦難の歴史」、その「誇りの回復」というところで、反日民族主義とキリスト教が一致していく。キリスト教ピューリタニズムとも通じるところである。
欲望・希望・願望といったものが通らずに阻止され、これが抑圧されることで形づくられる「心の凝り」というものがある。情緒的な色合いを強くもつことが特徴で、精神医学ではこれをコンプレックス(観念複合体)と呼んでいる。韓国人が古くからいう「恨が固まる」とは、現代でいえばコンプレックスとしての「心の凝り」が形づくられることに他ならないだろう。
韓国の精神医学者イ・ナミ氏は、著書「韓国社会とその敵たち」のなかで、韓国人は「物質、虚飾、教育、集団、不信、世代、怒り、暴力、孤独、家族、中毒、弱い自我」にわたる12種類のコンプレックスの塊だといっている。そして、このコンプレックスの塊こそが、現代韓国社会に顕著に見られるさまざまな病理現象の原因をなすものだと断じる。
自分を無罪とする責任回避
恨の多い人がそのまま恨を抱え続けていくと、一種の怒り症侯群である火病にまで至ることが少なくない。「怒りや悔しさをまともに発散できなくて、無理矢理に我慢するうちに火病になる」のだが、多くの人はそこまで我慢することなく、四方に怒りを爆発させていくことになる。韓国人がしばしば激しやすいといわれる理由もそこにある。
いずれにしても、なぜ韓国人は一方的に自らを純化し、無実の者として自己責任を回避し、恨を抱えて生きようとするのだろうか。アメリカの精神医学者ロロ・メイの「疑似イノセンス」論は、この疑問に明快な答えを与えているように思う。
イノセンス(innocence)とは、「無罪・無実、無害の・悪意のない、純粋・無邪気」などを意味する言葉である。イノセンスそのものを生きているのが子供だが、大人になってもイノセンスの見かけをもって生きているような人がいる。つまり自分を擬似的にイノセンスで装うのだ。これがロロ・メイのいう疑似イノセンス(Pseudo-innocence)である。心の内のイノセンスではなく、外から見たときだけのイノセンスである。
ロロ・メイは「それは決して大きくなりすぎることのない子供らしさやある種の過去への固着から成っている。それは、無邪気というよりむしろ幼稚だ」として次のようにいう。
「これは神経症に見られるイノセンスと平行関係にある。このイノセンスは、決して生き抜いてこられたものではなく、幼児のままに固着してしまうイノセンスで、ただ敵対的で冷たいあるいは支配的な親に対して身を守るだけのために、その幼児性にしがみつくのである」(小野泰博訳「わが内なる暴力」)
なぜ世間の荒波を生き抜こうとせず幼児性にしがみつくのか。それは外部の権力から自らを守る防御のためで、疑似イノセンスは「外的な力の形態とかあるいは地位および威信といった内的な力の形態を含む、権力の現実に直面しなければならないときの防御壁」(同書)なのである。
ここは多くの日本人には容易に理解できないところかもしれないが、韓国社会に生まれて大人になった私にはとてもよくわかる。韓国の社会には、地位や威信などを含む権力のまことに不条理な働きが、排ガスのように充満しているからだ。子供からすれば、大人になることは不条理な人間になることに等しいとすら思えてくる。
疑似イノセンスは「自分を無罪とする責任回避」で大きく特徴づけられる。韓国の旅客船セウォル号沈没事故の犠牲者を追悼するポストイット・ボードに、青少年らによる無数のメモが貼り出された。新聞報道されたものからいくつか拾ってみる。
「姉さん、そして兄さん、もう二度とこんな国に生まれないでください」「さようなら。兄さんが、必ず悪い大人たちと最後まで戦って、二度とこんな悲しみが無いようにするから」「冷たい海中に恐ろしさで真っ青になって泣いた私たちの後輩を考えなさい。こんな権力に耳をふさいで目をとじる人々ならば、本当に嫌いだ」「道徳を学ぶ理由は何ですか? どうか大人たちは非道徳的に生きないでください。花のように美しい私たちの命を安全にして欲しい」「互いに利益だけ考える社会だ。大人たちの欲望のために姉さん兄さんの命が一日で消えた」(ハンギョレ新聞日本語電子版2014年4月25日)
韓国各地のポストイット・ボードは、こうした国家、権力、社会、大人の罪・責任を問う子供たちの悲痛な声に満ち溢れていた。
社会の制度・秩序・慣習を受け入れていくことで、子供はイノセンスを脱して大人になる。大人としての自覚と責任をもって生きていこうとする。これがまっとうな社会でのあり方だ。しかし韓国のような不条理が大手を振ってまかり通る社会では、大人になりたくない子供たちをたくさん生み出すことになる。
「幼児のままに固着してしまうイノセンス」をもって、「花のように美しい自分、責任がない自分、無罪である自分」を守ろうとする。こうして疑似イノセンスで自らを装う大人になっていく。
そうした人たちは、人間ならば誰もが内部に抱えている不道徳性とか反秩序性といった破壊的な力を、自分のなかには認めようとしない。そして、自らを潔癖であり無罪であるとする一方で、他者に対しては道徳的な完全性を求めて強く批判する。
この態度がロロ・メイのいう疑似イノセンスである。そしてロロ・メイがいうように、自己内部の破壊的な力が抑圧されると、極めて暴力的な形で噴出するのである。
「責任回避の防御物としてのイノセンスは、また成長を妨げる防御物である。こうしたイノセンスは、われわれの新しい認識を妨げ、人類の苦悩とともによろこびをわがこととして感じとることをできなくしてしまう。この苦悩とよろこびは、擬似的なイノセンスの人間には閉ざされているものである」(同書)
多くの恨を抱えさせているのが擬似イノセンスである。恨はキム・ジョンウ氏がいうように「弱くて善なる人間が強い人間に感じる劣等意識、葛藤として見える」面をもつことは確かだが、その主体は自分を「無罪、無責任、純粋」と装う疑似イノセンスにある。自分には責任がないのだから、自分にふりかかる火の粉はすべて他者によるものである。こうした「他人のせい」へのうらみが恨として溜め込まれるのである。
擬似イノセンスでは、自分をイノセンスと装うことが、自分が生きるための戦略として利用される。民族レベルでいえば、韓国が無罪であることが、韓国が(民族の誇りを失うことなく)生きるための戦略として利用される。そこで日本は韓国にとって、どこまでも有罪でなくてはならない、責任が追及されなくてはならない、この世になくてはならない対象なのである。
彼らの関心は、自分(韓国)が善であり道徳的に正しいという聖なるイメージを維持することに向けられる。他者(日本)が自分の純粋さにどれほど応えてくれるかを期待し、自分自身の汚れのないイノセンスを再確認し続けようとするのである。
彼らの関心は、自分(韓国)が善であり道徳的に正しいという聖なるイメージを維持することに向けられる。他者(日本)が自分の純粋さにどれほど応えてくれるかを期待し、自分自身の汚れのないイノセンスを再確認し続けようとするのである。
韓国人と人格障害
外部の権力から自分を守る防御として、イノセンスで自らを装う。その装いが強固であればあるほど、対人関係にさまざまな障害が生じてくることは疑いない。
十年ほど前のことだが、韓国の新聞で「二十歳の男性の45%が対人関係障害の可能性」という記事を読んだ。韓国の研究チームによる人格障害の調査だが、「この数値は、米国やヨーロッパなど先進国の平均11~18%に比べて、2・5~4倍に達する」という(東亜日報日本語電子版2003年2月10日)。
記事には「今回の研究結果は国内学術誌『精神病理』と米国の学術誌『精神医学と臨床神経科学』に掲載される予定」とあったから、学術的な研究であるのは間違いない。
人格障害(パーソナリティー障害)とは通常、「偏った考え方や行動パターンのため、家庭生活や社会生活、職業生活に支障をきたした状態」とされている。関係する書物(岡田尊司著「パーソナリティー障害がわかる本―『障害』を『個性』に変えるために」)を何冊か読んで深く考えさせられたのは、その偏り方が韓国人一般に見られる精神的な傾向ときわめて酷似していることだった。
それら書物から私なりに整理してみたところでは、人格障害の人には次のような性格の偏向が強く見られる。(一)善悪、白黒、敵味方など、中間のない両極端の考えに陥りやすい。(二)「私とあなた」(自分と他者)の区別があいまいで自分本位。(三)容易に他人を信じることができない。(四)自分は理想的・完璧だという思いと、自分は劣等で価値がないという思いが同居している。(五)物事を受け止める心が弱くて狭く、処理できなくなると暴発的な行動を起こしやすい。
いずれについても、韓国人の精神的な特徴と、とてもよく合致していると思わずにはいられない。疑似イノセンスがそうであるように、考え方が極端なので、広い視野をもって物事を判断することができない。自己本位で自分を絶対視しやすいので、自分が善い(正しい)と思うことは他人もそうだと思い込む、何かまずい事態が起きても自分ではなく他人に問題があると考える、といったことが生じやすい。
他人が信じられないので、表面的にしか親しい振る舞いができず、本当に他人に心を許すことができない。プライドが高いので、自信過剰とも見えるが、実際には自信がなく劣等感に苛まれている。受け止める力が弱いので、すぐに感情的となり、冷静に物事に対処することが難しくなる。
ありのままの自分を愛すること
人格障害は自己愛の障害、つまり「ありのままの自分を愛すること」のできない障害だといわれる。自己愛が傷ついたり損なわれたりしているために起きるもので、幼い自己愛に支配されている一種の幼児性とも見られている。
「ありのままの自分を愛すること」ができないと自分が嫌になってくる。引っ込み思案から、ひきこもりにもなりがちである。しかし、そういう嫌な自分に我慢がならず、逆に「自己愛」を過剰に膨れ上がらせていく人がいる。このタイプの人が陥る人格障害が自己愛性人格障害といわれるものだ。
自己愛性人格障害(Narcissistic Personality Disorder)とは、ありのままの自分を愛することができず、自分は優れていて素晴らしく特別で偉大な存在でなければならないと思い込む人格障害の一類型である(米精神医学界「精神障害の診断と統計マニュアル」)。両親・家族が社会同様に「ありのままの自分を愛してくれる」体験に乏しいため、「ありのままの自分を愛すること」ができず、自己愛性人格障害になりやすいと考えられている。
「ありのままの自分を愛すること」ができないと自分が嫌になってくる。引っ込み思案から、ひきこもりにもなりがちである。しかし、そういう嫌な自分に我慢がならず、逆に「自己愛」を過剰に膨れ上がらせていく人がいる。このタイプの人が陥る人格障害が自己愛性人格障害といわれるものだ。
自己愛性人格障害(Narcissistic Personality Disorder)とは、ありのままの自分を愛することができず、自分は優れていて素晴らしく特別で偉大な存在でなければならないと思い込む人格障害の一類型である(米精神医学界「精神障害の診断と統計マニュアル」)。両親・家族が社会同様に「ありのままの自分を愛してくれる」体験に乏しいため、「ありのままの自分を愛すること」ができず、自己愛性人格障害になりやすいと考えられている。
何種類もある人格障害のなかでも、自己愛性人格障害の病像はとくに、韓民族の性格的な特徴をそのまま極端化したものであるかのようだ。以下が診断基準となっている。
【診断基準】誇大性(空想または行動における)、賞賛されたい欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち五つ(またはそれ以上)によって示される。
(一)自己の重要性に関する誇大な感覚(例:業績や才能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待)(二)限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。(三)自分が〝特別〟であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人たちに(または施設で)しか理解されない、または関係があるべきだ、と信じている。(四)過剰な賞賛を求める。(五)特権意識、つまり、特別有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する。(六)対人関係で相手を不当に利用する、つまり、自分自身の目的を達成するために他人を利用する。(七)共感性の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。(八)しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。(九)尊大で傲慢な行動、態度
(高橋三郎・大野裕・染矢俊幸訳「DSM‐IV‐TR 精神疾患の診断・統計マニュアル新訂版」)。
自分をイノセンスで装い、いつしかそれが本当の自分だと思い込んでいく先に、こうした病理的な心的現象が出てくるように思われる。人格障害に関連する精神医学・心理学の書物が記すところを私なりに整理・解釈してみると、自己愛性人格障害の人の対人関係には次のような特徴が見られる。
自分をイノセンスで装い、いつしかそれが本当の自分だと思い込んでいく先に、こうした病理的な心的現象が出てくるように思われる。人格障害に関連する精神医学・心理学の書物が記すところを私なりに整理・解釈してみると、自己愛性人格障害の人の対人関係には次のような特徴が見られる。
▽「ありのままの自分を愛すること」ができないので、優越的な存在だという自分で作った幻想の自分を愛そうとする。▽自分より優れたものを認めたくないので、他人の優れた能力や才能を無視する。▽他人を見下し・軽蔑・侮辱することが快感となる。▽自分の優越幻想がなかなか示せないとなると、過ぎたことであろうとも他人の欠点・難点を探し出してはなんくせをつけていく。▽人をバカにしているので、自分もいつバカにされるかわからないと疑心暗鬼になる。▽閉じられた自己幻想から出ようとせず、他人に心を開くことがなくなる。
韓国人がしばしば示す自民族優越主義、反日民族主義、反日行為には、こうした心的傾向との同質性を強く感じさせられる。
韓国人がしばしば示す自民族優越主義、反日民族主義、反日行為には、こうした心的傾向との同質性を強く感じさせられる。
反日が常軌を逸すると思える根拠
多くの韓国人が示す反日行為が「常軌を逸している」と感じられるのは、これまで見てきたように、火病に現われる複合的な怒り症候、人格障害に現れる各種の性格的な偏向ときわめて近似しているからである。しかし彼らは病者なのではない。彼らは、他者に依存したり他者や社会を攻撃することによって、火病や人格障害に陥ることを回避している「代償的擬似健常者」なのである。
自分には罪がないのに(イノセンス)、なにゆえに自分はこれだけの苦労を背負わされるのかと、コンプレックス(恨)が心の凝りとして固まっていく。これが高じると火病にまで至る。外部の権力から自らを守ろうとする疑似イノセンスが、ありのままの自分ではなく誇大にピュアーな幻想的自分を愛するようになっていく。それが高じると人格障害にまで至る。
韓国人の反日行為が「常軌を逸している」と感じられる根拠は、火病や人格障害と近似する心性を内部に抱えた「代償的擬似健常者」が、韓国社会に多数生み出されていることにあるのではないか。そこには、儒教・朱子学に特有な潔癖主義、厳正主義を重んじる、伝統的な制度文化が、諸個人に対する外部の権力として強く作用していると思う。
儒教的な制度文化に覆われた社会では、制度規範としての絶対的な勧善懲悪(善を勧め悪を懲らしめる)が人々の心の内面を圧迫する。そこでは、人々は自分の表面を勧善懲悪の構えで飾り立てて生きるしかなくなっていく。
しかし現実はまことに不条理なものとしてある。疑似イノセンスが入り込む余地がそこにある。固まっていくコンプレックス=恨を抱え続け、「アリラン」の歌のようにそれが解けていく先に希望をもとうとする。現実には他者より抜きん出て俗世間で成功することが一途に目指されていく。
朝鮮半島の伝統的な社会では、そうした人々の恨をバネとする上昇志向が社会を活性化させる原動力となっていた。良くも悪くも、排他的な自己愛と自己繁栄のエネルギーが、自分の一族や自分が所属する小集団の繁栄へと一途に向けられてきた。
こうした「集団利己主義」の社会が根本的な解体を経ずして近代へ突入した。日本統治下での近代化推進で解体への道がつけられたとはいえ、戦後はその道を遮断し、反日を繁栄へのエネルギーとする国策が根を下ろした。「集団利己主義」の民族規模での強化が推進されたのである。 iRONNAより
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