日清戦争後、ロシアとの戦争を準備していた日本は、1904年2月8日夜、宣戦布告もなしに旅順港に停泊中のロシア艦隊を奇襲・破壊し、翌日は、仁川沖のロシア艦2隻を撃沈しました。
奇襲によって朝鮮海峡と朝鮮西海の制海権を握った日本軍は、朝鮮を橋頭堡として、5月、鴨緑江沿岸のロシア軍を撃破し、中国東北部へ進撃しました。
6月、遼東半島に上陸した日本軍は、旅順港を守るべく南下したロシア軍を撃破しました。
8月下旬、日本軍は遼陽の戦いでロシア軍を破り、1905年1月には、6万の死傷者を出しながらもあきらめることなく攻撃を繰り返して旅順要塞を占領しました。
1905年3月、奉天(瀋陽)の戦いで、ロシア軍は決定的な敗北を喫し、急遽出動したバルチック艦隊も、5月、朝鮮海峡で撃破されました。
日本が日露戦争に勝利したのは、米英帝国主義の積極的な支援を抜きにしては考えられません。
戦争の開始前、日本がロシアと戦えば支援を惜しまないと約束していたアメリカはイギリスとともに、日本が使った戦費17億円のうち15億円を提供しています。
1905年9月5日、アメリカが仲裁して結ばれたポーツマス講和条約の結果、日本は、旅順と大連を含む遼東半島、東清鉄道の南満州支線(長春―旅順)と北緯50度以南のサハリン及び付属の島の日本への譲渡、それにオホーツク海とベーリング海などロシア沿海における漁業権を獲得し、さらには朝鮮に対する政治・経済・軍事的「優越権」と朝鮮を「指導、保護、監理する権利」を獲得しました。 朝鮮中央通信
0 件のコメント:
コメントを投稿